貿易の自由化によって、
国が滅んだ

 戦いは、蒸気船を投入したイギリス軍の圧勝に終わります。イギリス軍艦の上で調印された南京条約は、次のような内容でした。

(1)清朝は、広州および厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海の5港を開港し、公行を廃止する
(2)清朝は、広州の入口にある香港島をイギリスに割譲し、賠償金を支払う

 大勝利をおさめたイギリスが清朝から奪ったのはちっぽけな香港島だけでした。イギリスが求めたのは領土ではなく、自由貿易だったのです。さらにイギリスは、追加条約の中で関税協定権と領事裁判権を清朝に認めさせます。

 関税協定とは、清朝がイギリスからの輸入品にかける関税率を勝手に決めてはならない、イギリスと「協議して決めよ」という意味です。

「協議するんだから、公正だ」という理屈は、対等な2ヵ国間での話。清朝はアヘン戦争でぼろ負けした直後です。当然、戦勝国イギリスの要求通りに関税は引き下げられます。

 領事裁判権とは、イギリス商人と中国人との紛争を見越して、イギリス人が清朝の法で裁かれないように、5港駐在のイギリス領事がイギリス人に対する裁判権を持つことです。

 こうして清朝は自由貿易を認め、開国しました。アヘンに加えて、イギリス製の綿製品が5港を通じて大量に輸入されます。中国産綿布は価格競争に敗れ、伝統的な手工業が衰退します。

 戦争前からアヘン密輸で貿易赤字が続いていましたが、戦後は赤字がどんどん拡大したため、貿易代金として大量の銀が清朝から流出し、貨幣不足から長期のデフレに突入。農産物価格の下落から、人口の多数を占める農民が困窮します。

 困窮農民は苦力(クーリー)と呼ばれる移民労働者としてアメリカなど海外へ流出し、また南中国では大暴動(太平天国の乱)を起こします。清朝衰退の始まりです。