21年間にわたり中国事業に携わった人物がいる。森ビル株式会社OBの吉村明郎氏は、1990年代に大連と上海での2つのオフィスビルと、上海での「世界一」の高層ビル開発で陣頭指揮をふるった。日本企業には快適な事業環境を提供する一方、中国市場ではオフィスのスタンダードを確立した森ビル、その中国ビジネスに一貫して対峙した吉村氏の足跡と闘いを振り返る。

――森ビルの中国事業は1993年にスタートしました、ちょうど南巡講和の翌年に当たります。1989年の天安門事件で外資企業は後退したわけですが、なぜ森ビルは流れに逆行したのでしょうか。

吉村明郎(よしむら・あきお) 1947年生まれ。1972年中央大学経済学部卒業。同年、森ビル株式会社入社。発注業務、都市開発、商業開発、観光開発などを経て1993年、森ビルの中国事業スタートに関わる。「大連森茂大厦」「上海森茂国際大厦(現・恒生銀行大厦)」「上海環球金融中心」の初代総経理として法人設立・開発・建設・運営にあたる。21年間中国事業を担当した後、2014年に森ビルを退社。現在も定期的に中国に出張し、中国側との交流を継続している。NPO法人日中映画祭実行委員会理事などを兼務。息の長い中国事業の根底には、「お酒に強く楽観的」なキャラクター像がある。

 1992年に日本はバブルが崩壊し、日本国内に閉塞感が漂う一方で「これからはアジアの時代だ」というムードが強まりました。そこで1993年、森稔前社長と一緒にアジアの諸都市を見て回ったんですが、中国には他の国にはない郷愁を感じました。大連は30年前の日本、上海は20年前の日本だなと。

 中国は天安門事件後、外資企業の後退が続きました。世界は中国に背を向け、中国の対外開放も一切が凍結してしまったのです。しかし、1992年の鄧小平氏が行った南巡講話と今上天皇陛下の訪中で、これは好機かも知れないと見たわけです。森前社長の「中国で青春時代をもう一度」という強い気持ちもありました。

 森ビルは新橋、虎の門、赤坂、六本木界隈に集中してナンバービルを建て「港区の大家」とまで言われたドメスティックな企業でもありましたが、三井、三菱、住友などの財閥系デベロッパーに先駆けて中国に進出を検討するに至ったのです。

――トップダウンの強さは非上場企業ならではですね。ではなぜ大連を選んだのですか。

 大連との縁は1993年にさかのぼります。第11森ビルに大連市駐日本経済貿易事務所が入って来たのですが、当時の薄熙来市長が森前社長に面会に来て「ついては森ビルも大連に進出してほしい」との要請がありました。社交辞令ともいえるこの話がきっかけで、大連進出検討を開始したのです。

 当時、大連には日中合弁の「大連工業団地」があり、市内を含めて約200社の日系企業が進出していました。オフィスビルもあるにはありましたが、ロビーなど共用部は真っ暗で、フロアもゴミだらけでした。ビルとしての設備もビル管理の概念などもなかったのです。現地の日系企業はやむを得ず、ホテルをオフィス替わりに使っていました。そんな状況でしたから、市場調査よりも先に「建ててくれるならすぐにでも入りたい」という日系企業の声に押されました。“日系企業への快適な事業環提の提供』『中国でオフィスビルのスタンダードの構築”、それが私たちの新たな目標になったのです。

――こうした経緯で生まれたのが「大連森茂大厦」(以下、大連森茂ビル)ですね。けれども吉村さんの中国初出張は1993年のこと。翌1994年9月に着工とは大変スピーディな展開ですね。

 10月の出張以降、立地選定に入ったのですが、大連市からは「どこでも好きなところを」とまで言われ、目抜き通りの人民路にある大連理工大学女子寮の跡地を選びました。その後、独資法人を設立し営業許可を取得し、土地を購入し、ビルの設計を行い、建築の許認可を取得しました。これをたった8ヵ月間で切り抜けました。日本でなら最短でも2年近い歳月がかかるでしょう。1993年の秋に出張してから翌年の9月には着工……私も今までに経験したこともない、驚異的なスピードでしたね。