シャープの行方をめぐる議論や報道が賑々しい。それを横目で眺めていると、どうもフランス語でいう「デジャヴュ」の感覚を拭えない。最初の赤字転落から6年以上も経つので、同じ話が蒸し返されるのは仕方がないとしても、大局を見誤って禍根を残す愚は何としても避けるべきであろう。
かつての栄光は見る影もなし
もはや「守るべき」技術などない
シャープに関する議論はややこしい。その一因は、「かつてのシャープ」と「いまのシャープ」を混同する人が後を絶たない点にある。両者は似ても似つかない。まずは、そのあたりで認識を揃えるところから始めよう。
シャープが順風満帆だった2008年3月末と直近の15年12月末を比べると、シャープは株主資本を1兆円以上も毀損し、生産設備を主力とする有形固定資産も3分の2を手放した。その結果、時価総額は9割が吹き飛んでいる。国内社員の8割を温存しているが、企業価値は以前の1割しか残っていない。いまや3000億円も出せばシャープが買えるのに、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業以外に買い手は現れない。
債券市場でもシャープは債務不履行の可能性が高い貸出先と格付けされてしまい、尋常な方法では外部資金を調達できない。みずほ銀行と三菱東京UFJ銀行が金融支援に乗り出していなければ、今頃シャープは債務超過に陥っていたはずである。
「いまのシャープ」は瀕死の重傷を負っており、もはや「かつてのシャープ」ではない。問題を筋よく解決したければ、現実を直視・凝視することが第一歩となる。
技術流出を防ぐために、国がシャープを救済すべきという声がある。確かに「かつてのシャープ」は液晶王国を築き上げた。それをレバレッジして経営陣は、ことあるたびに自社の技術力を喧伝してきたが、「いまのシャープ」に守るべき技術はない。守るべき技術を持つのは韓国や台湾のライバルたちで、既にシャープは競争に敗退したと見たほうがよい。
韓国・台湾の挑戦を受けて日本が苦しむのは、かつて日本の挑戦を受けてアメリカが苦しんだのと同じ図式で、そもそも防衛戦は難しい。液晶ディスプレイは何種類ものフィルムが貼り合わさってできており、その構造を編み出したシャープは称賛に値するが、いまや技術の焦点は部材性能に移っている。その部材を韓国・台湾勢に向けて供給するのは幸いなことに日本のサプライヤー群で、シャープの偉業は部材メーカーが謳歌する高収益のなかに生き続けている。そう考えれば腹は立たない。
もちろん、シャープが自社で利益を取り込むことに成功していれば、そのほうがよいにきまっている。しかしながら、シャープは亀山で技術を囲い込む戦略に打って出て、敗退した。囲い込んだ部材メーカーの国内同業ライバルたちがリバース・エンジニアリングをして、部材を韓国・台湾に売り込んだからである。競争社会で、この手の誤算は高くつく。