イタリア半島で勢力を拡大した強力なローマと、海運国カルタゴが衝突したポエニ戦争。カルタゴのハンニバルは連戦連勝でローマを驚愕させるも、最後は総力戦で敗れてしまう。なぜ天才軍略家と呼ばれたハンニバルは、ローマに負けてしまったのか?ハンニバルの敗北から、戦略の絶対ルールが見えてくる。好評発売中の『戦略は歴史から学べ』の著者が、新たに書き下ろす「番外編」の連載がスタート。
わずか25歳で、スペインの最高指揮官となる
戦略の天才として有名なハンニバル・バルカ。彼の父ハミルカル・バルカは、第一次ポエニ戦争で、カルタゴ軍の勇将としてシチリア島で戦います。しかし補給を担当する海軍がローマに敗れたため、カルタゴは膨大な賠償金を支払い休戦します(これでカルタゴは200年近く保持した、重要拠点のシチリア島領土を失った)。
父ハミルカルは、敗戦後にカルタゴの勢力を拡大するため、スペインに進出。9歳だったハンニバルは父と一緒にスペインに行くことを願い、出発を前に「けっしてローマの友にはならない」と誓うことで同行を許されます。
ハミルカルとバルカ家のスペイン侵略は順調に進みますが、前228年にヘリケーという都市を攻略中、敵の偽計にだまされて敗走。ハミルカルは二人の息子を助けるため、敵をひきつけて騎馬で川を渡り、そこで戦死します。
その後はハミルカルの娘婿がスペインの侵略を継続し、前221年の彼の死のあと、青年ハンニバルが兵士全員によって最高指揮官に選ばれます。そのときわずか25歳。ハンニバルがスペインの最高指揮官となった瞬間でした。
ハンニバル、カンネー(カンナエ)でローマ軍7万人を全滅させる
父の遺志を継いだハンニバルは、最高指揮官となりすぐに軍事侵攻を開始します。最初の3年間は、主にスペインの領土を拡大、盤石なものにする戦争でした。
前218年、37頭の戦闘象と約5万の兵力でスペインを出発して、北イタリアからローマ領土に侵入。次の3つの戦いで勝利を収めたのちは、彼は南イタリアのカンパニア地方を目指します。
(1)ティキヌスの戦い(紀元前218年)
(2)トレビア川の戦闘(紀元前218年)
(3)トラジメーノ湖の戦い(紀元前217年)
南方の穀倉地帯は食糧が豊富で、本国カルタゴとの連絡が可能な港があったからです。カンネー(カンナエ)はローマが物資を貯蔵していた地区であり、ハンニバルはカンネーを奪取して食糧を奪い、その地でローマ軍と対峙します。
決定的な戦いは、前216年に起こりました。カンネー(カンナエ)でローマ軍8万人と、ハンニバルのカルタゴ軍5万人が激突。ハンニバルの巧みな用兵でローマ軍は包囲されてほぼ全滅。8万の大軍のうち、7万人が戦死。元老院議員も80名以上が戦死し、一方のカルタゴ軍は5700名の戦死と圧倒的な勝利を収めたのです。
勝利したら、必ずその果実を刈り取るべきである
カンネーの決定的な勝利のあと。ハンニバル軍内では、指揮官たちが口々に言ったことがありました。「いますぐローマに進軍すべきだ」です。ローマの大軍を壊滅させた戦果を利用し、敵の中心地を急襲すべきというのです。
「前216年のこの夏の何日かの間、カルタゴ軍は全能の力を手に入れていた。一気にローマ市を衝けば何が起こったかわからない。カンナエからローマまでわずか数日の距離であり、しかもこの時点でイタリア半島には、ローマの外港オスティアの艦隊と、新たに徴兵した急ごしらえの二軍団以外、いかなるローマ軍もいなかった」(『通商国家カルタゴ』より)
しかしハンニバルは結局、この奇襲作戦を否定します。進軍を強く主張した騎兵隊長マハルバルは、有名な言葉をハンニバルに叩きつけます。
「ハンニバルよ、貴方は勝つすべは知っている。だが、勝利の果実を刈り取ることはできないのだ」(『ハンニバル』長谷川博隆)
別の説では後半部分が「勝利を活かす方法を知らないのだ」ともされていますが、マハルバルや幕僚からは、カンネーの大勝利で目の前に見えたローマへの道を、ハンニバルがなぜ進まないのか、強い苛立ちを感じたのでしょう。
ハンニバルはカンネーの劇的勝利のあと、ローマの属領を分断させて味方にする「持久戦」を仕掛けることになりますが、結局ローマの属州は彼の意図ほどには分裂せず、強大なローマ帝国の団結力は、ハンニバルの期待ほど揺るぎませんでした。
カンネーで敗北した指揮官のヴァロは「祖国に絶望しなかった」としてローマに迎えられ、ローマでは泣き悲しむことは禁じられました。誰も町を去ることも許されず、ローマは不屈の闘志を見せながら、冷静に反撃の機会を伺ったのです。
ハンニバルは、有利な和平を望んで使者をローマに送りますが、冷たくあしらわれます。ローマはその後、強敵ハンニバルを避けて戦闘を継続し、次第に周辺地域のカルタゴ勢力を撃滅して、ハンニバル軍を窮地に陥らせて戦局の逆転に成功します。