500倍の成果をもたらした
「組み合わせ」思考

マーガレット・ハッチンソンは1910年にテキサス州に生まれた。ライス大学を卒業後、父親と同じようにエンジニアになった。1937年には「ガス吸収における境膜抵抗に及ぼす溶質の効果」と題する論文を書きあげ、化学工学の分野で女性初となる博士号をマサチューセッツ工科大学で取得した。

 ハッチンソンは愛情深い妻でもあり、母でもあった。「加熱、冷却、洗浄、乾燥――どれも日常的な家事に関係しています。ところがそれらを大きなスケールで行うときは、周到な計画が必要です――それが化学工学なのです」。彼女はあるインタビューでそう語っている。「化学工場で過熱を制御して炭化水素を分離するのは、ケーキを焼くのとよく似ています」と彼女は説明する。「また、家庭でのアイスクリームづくりは、結晶化の工程とそっくりです」

 ハッチンソンはまだ駆け出しのエンジニアだったころ、合成ゴムの製法を考案し、戦闘機向けのハイオク燃料を生産する方法を開発した。さらには、ペルシャ湾の石油化学基地の立ちあげにも携わった。こうした業績が認められ、ハッチンソンはペニシリンの大量生産を目指すプロジェクトに加わることになった。

 カビからペニシリンを抽出するのは並大抵のことではない。「カビはオペラ歌手のように神経質で、生産量が少なく、抽出は至難の業(わざ)、精製は厄介きわまりなく、成分分析はうまくいかない」と、ファイザー社のある幹部は嘆いた。これがハッチンソンに与えられた課題だった。

 ハッチンソンは、すでに稼働している装置を活用する戦略を立てた。ペニシリン製造用の装置をゼロから設計した場合、開発期間とコストがかかりすぎ、不確実性が高まるからだ。ペニシリンの抽出にはマスクメロンに生えるカビが適していることがわかっていたので、ハッチンソンはそこから出発した。そして彼女のチームは、ファイザーが開発した発酵プロセスの改良に取り組んだ。ファイザーは微生物の力を使って、クエン酸やグルコン酸といった食品添加物を生産する技術を持っていた。さらにハッチンソンは、ブルックリンの製氷工場をペニシリン生産工場に改造した。製油事業での経験から物質成分の化学的分離プロセスを熟知していたので、深底タンクで砂糖や塩、牛乳、ミネラル、家畜飼料を発酵させ、大量のカビをつくりだした。

 ハッチンソンはペニシリンの生産量を拡大させた。発酵技術と石油化学プラントのプロセスエンジニアリングという異質な分野が融合し、人類史上もっとも重要な抗生物質の1つであるペニシリンの安定的な生産が可能になった。その過程では、いくつもの手順が確立され、標準化された。ハッチンソンは関連する技術と物質について理解を深めようと、細菌学者、化学者、薬学者に協力を求めた。狭い専門分野に閉じこもらずに「隣接領域」に関心を向けたことが成功を早めたのだ。

 戦時生産委員会の指揮のもと、ほかの製薬会社もハッチンソンの大量生産手法を取り入れた。深底タンク発酵方式によって生産されたペニシリンの量は、1943年のはじめの5ヵ月間だけで4億単位にのぼった。翌年にノルマンディー上陸作戦を控えた同じ年の末には、生産量はじつに500倍も増加し、1945年8月には、民間需要も含めて6500億単位のペニシリンがいつでも使えるようになった。大戦終結後、ファイザーをはじめとする製薬会社は、発酵工程を職人的なノウハウから工業的なものへと進化させた。これにより、さらなる化学製品や医薬品の開発に弾みがついた。

ノーベル賞級の「発見」とその「応用」は、
どちらがすごいのか?

 生みの親の功績は称えられる。だがハッチンソンのように、社会のニーズに対応して重要な役割を果たす大勢の人々が見過ごされるのはなぜだろう?彼らの貢献は最初の大発見と同じくらい重要だというのに。技術の応用も創造的な活動であることに変わりはないが、正当に評価されることはめったにない。歴史学者のジョン・レイはこう指摘している。

「『適応、改良、応用』はいちばんはじめの創造に比べて目立たないが、技術を具体的なニーズに結びつける技法には、基礎となるアイデアや発明にも増して独創性が求められる場合があることを忘れてはならない」

 ハッチンソンは製油所で学んだ知識を転用してペニシリンを大量生産した。これらのエンジニアリングの手法は単なる模倣ではなく、既存の知識と新たな目的に裏打ちされた戦略的な創造活動にほかならない

「組み合わせ」思考をより詳しく知りたい方は、『「考える」は技術』4章をご覧ください(構成:編集部 廣畑達也)