スター経営者退社による存亡の危機をいかに乗り越えたかPhoto by Yoshihisa Wada

存亡の危機で異例の経営陣入り

「なんじゃ、こりゃ!」

 昔、「太陽にほえろ」という番組で、松田優作扮するジーパン刑事が撃たれたときに発した言葉だ。大学時代に大きなコンサートのMCをしていて、バンドとバンドの間のセッティング変更に随分時間がかかり、間を持たすために話していたのだが、ネタがつきてしまった。仕方がないので、「なんじゃ、こりゃ!」と叫んで、苦し紛れにモノマネをしたことがある。

 それ以来のことだが、2000年3月、堀紘一さんがシニア・パートナー2人と共にドリームインキュベータを設立するために退社する、という話を聞いたときに口から出たのは、「なんじゃ、こりゃ!」というセリフだった。

 1986年からBCG日本法人の経営を担うだけでなく、大前研一さんと並んで日本のコンサルティング業界の看板役者であった堀さんが、あろうことか何人も連れて辞めるというのだ。いまから考えるとなぜそんな行動にでたのか不思議なのだが、堀さんの部屋に飛び込んで、「この2人だけは連れて行かないでくれ」と談判に及んだ。後にドリームインキュベータの社長になる山川隆義さんとBCG日本代表になる杉田浩章さんの2人だ。コンサルタントとして優れた人は、他にも何人もいたし、スターパートナー候補も存在した。ただ、自分たちの後、次世代の経営を担うのは、この2人だろうな、と感じていたからだろう。

 この時点では、自分自身パートナーになって、まだ2年目。その後、BCGの経営に携わることなど知る由もなかったのに、自分の次の世代のことを考えていたというのは、考えてみれば妙なことだ。

 さて、この事件で、BCGは“存亡の危機”に直面したと言ってもいい。当時の常識は、「我々の収入は、パートナー全員の累積経験年数の総和に比例する」というもの。残されたのは唯一のシニア・パートナーになってしまった内田和成さん(現・早稲田大学ビジネススクール教授)と若手パートナーだけで、累積経験年数の合計値が半減してしまった。この理論に従えば収入が半減することになる。

 内田さんは、同じく若手パートナーだった水越豊さん(後に私と共に共同代表)と私に、「この3人でやっていくしかない。君たちが先に逃げるのならば俺も今ここで辞める」と宣言した。随分、時代がかったセリフだなと思いながらも、どこか修羅場を求めてしまう性格なのか、「やってみましょう!」と即答したのを覚えている。

 内田さんが代表に就任してリーダーとなり、社内的にもパートナー人事をみる。水越さんはテクノロジー分野を中心に重要顧客を担当してビジネスを軌道に乗せる。私は、オフィスアドミニストレータという役割につき、ビジネスの数値責任を負い、パートナー以外の人回りについても担当することになった。

 もちろん、クライアントワークを続け、ビジネス貢献もしなければ、会社自体が立ち行かないので、「職人」としての仕事と「経営」の仕事の二足のわらじをはくことになった。通常ならば、パートナー昇格2年目にオフィスアドミニストレータになることなど、あり得ない。緊急事態だったので、たまたまお鉢が回ってきたのだろう。

 その後、オフィスアドミニストレータを5年(途中で、上海事務所から帰ってきてくれた今村英明さん<現在は信州大学経営大学院教授>と二人体制に)、続けて日本代表を11年と、都合16年もの間、コンサルティング会社の「経営」の仕事に携わることになった。

 途中、グローバル経営会議のメンバーやアジア太平洋地区のパートナー人事評価育成委員会のリーダーなど、BCGグローバルの経営にも携わることになったが、正直なところ、堀さんの退社という事件がなかったら、自分のキャリアがそういうふうに展開していったかどうか。本当に先のことはわからないものだと思う。こうして、偶然もあって、「経営」の仕事を始めることとなった。