大正2(1913)年の創刊から現代まで、その時代の政治経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーには、日本経済の埋もれた近現代史が描かれている。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』をさかのぼりながら紐解き、日本経済史を逆引きしていく。
「ダイヤモンド」1937年3月1日号に掲載された大座談会「新日本の『前夜』を語る――革新情勢と大陸政策、結城財政と生産力拡大問題、議会・政党と大衆」を紹介する3回目。今回は、経済評論家、山崎靖純の発言を読む。
出席者は以下のとおり。
・芦田均(立憲政友会代議士)
・木村正義(立憲政友会代議士)
・水谷長三郎(社会大衆党代議士)
・風見章(無所属代議士)
・村松久義(立憲民政党代議士)
・北昤吉(無所属代議士)
・山崎靖純(山崎経済研究所長、経済評論家)
・阿部留太(ダイヤモンド社取締役)
・石山賢吉(ダイヤモンド社社長)
司会は、野崎龍七(「ダイヤモンド」主筆)。
資本家と軍部が結びつきを強めるなか、
近衛文麿政権の誕生を予感していた山崎靖純
山崎靖純は、「時事新報」や「読売新聞」で経済記者を経験し、退社後は経済評論家として活躍していた。昭和研究会(連載第35回参照)の常任委員でもある。
「山崎 (略)資本家と軍部とが固く提携するとするならば、既成政党をいったいどう見ていけばよいのか。軍部と政党とは、従来の行きがかり上、相変わらずかみ合っていない。既成政党の方も、日本の政治を将来どういうふうに持って行くということについても、何の自信もなしに、ただ無闇やたらに軍に吠えついている。(略)それにも関わらず、軍は資本家と提携せんとするがごとき傾向が見えているのです。」
座談会の時点(1937年2月)で、内閣は陸軍出身の林銑十郎首相のもと、安田財閥出身の日本興業銀行総裁・結城豊太郎(★注①)が大蔵大臣に就任し、三井財閥の総帥、池田成彬(★注②)が日本銀行総裁に就いていた。いずれも4ヵ月で辞職したものの、金融資本家と軍部の結びつきが話題になっていたようだ。
★注① 結城豊太郎(1877-1951)は山形県出身、東大法学部を卒業後、日本銀行へ。1921年に安田財閥へ転進し、安田銀行副頭取を経て、1930年に日本興業銀行総裁。1937年2月に大蔵大臣、6月に辞職後は7月に池田成彬の後任として日本銀行総裁に就任(1944年まで)
★注② 池田成彬(1867-1950)は山形県出身、慶応義塾、ハーバード大学卒業後、三井銀行へ。常務を経て1932年に三井合名理事、三井財閥の総帥となる。1937年2月、日本銀行総裁、6月辞任。第一次近衛内閣には途中から大蔵大臣兼商工大臣に就任した(1938年5月―1939年1月)。つまり、結城豊太郎と入れ替わったわけである。