橘玲の日々刻々 2020年3月20日

映画『ある少年の告白』では語られなかった
同性愛者への「治療」をめぐる歴史的変遷
【橘玲の日々刻々】

 牧師の父親がゲイの息子を同性愛の矯正施設に送り込むという実話に基づいているのが映画『ある少年の告白』で、ラッセル・クロウとニコール・キッドマンが両親役を演じている。1973年にアメリカ精神医学会が『精神疾患の診断・統計の手引き(DSM)』から同性愛を削除し、もはや「治療すべき病気」ではなくなったにもかかわらず、アメリカでは現在も36州で同性愛の矯正施設が認可されており、およそ10万人が「治療」されているのだという。

 聖パウロは「コリントの信徒への手紙」で、「男娼、男色をする者は決して神の国を受け継ぐことができません」と述べた。「宗教的国家」であるアメリカでは、ゲイの若いキリスト教徒が「神の国」に迎え入れられるように“矯正”することがいまだに当然とされているらしい。

 でもどうやって? 映画では、アルコール依存症の治療団体AA(アルコール・アノニマス)に似たグループ療法で自らの“罪”を告白させ、それでも「改心」できないと父親(施設のスタッフは入所者に手を出すことができない)が聖書で打擲するという、エクソシストのような光景が描かれていた。

 しかしこれは、同性愛の「治療法」としてはあまり一般的なものではない。これまでどのような方法が試みられてきたのか、今回はアメリカの神経学者で、ゲイであることをカミングアウトしているサイモン・ルベイの『クィア・サイエンス 同性愛をめぐる科学言説の変遷』(勁草書房)から、その数奇な歴史を紹介したみたい。ちなみに「クィアQueer」は「風変わりな/あやしげな」を意味する形容詞が男性同性愛者に対する侮蔑語となり、そこからさらに肯定的な意味に転じて、現在では「異性愛とは異なるジェンダーアイデンティティ」の総称としてPCな(政治的に正しい)用語となっている。

フロイト的な「治療」は下火になるが何人かの精神分析家は同性愛を「治療すべき病気」と主張

 ナチスの優生学がユダヤ人やロマ人(ジプシー)、精神障がい者などとともに同性愛者を「遺伝的に劣っている」として強制収容所に送ったことで、第二次大戦後は、同性愛を生得的(遺伝的)なものとして語ることはタブーになった。

 そんなときにアメリカで広く受け入れられたのがフロイトの精神分析学で、性的志向は「リビドー」という性的欲望のエネルギーによって形成されるとした。この立場は現在の心理学では「力動論(dynamic)」と呼ばれている。力動論は精神疾患を幼少期の経験などの「環境」に求め、遺伝的な要素を持ち込まないため、優生学的なものを全否定するリベラルには都合がよかった。

 よく知られているように、フロイトは『性理論三篇』(1905年)で子ども(男児)の性欲の発達を口唇期、肛門期、男根期(エディプス期)、潜伏期、性器期の5つの成長段階に分類し、母親への性愛を父親によって禁じられるエディプス・コンプレックスがもっとも重要な体験だと考えた。

 フロイトによると、乳児のリビドーは口唇期で母親の乳頭に向かったあと、排便で快感を得ることで肛門期に移る。この理論では、肛門性交を行なう「ウケ」の男性同性愛者は、強すぎる自己愛のために男根期に移行することができず、発達段階が肛門期にとどまってしまったのだと考える。一方、「タチ」の同性愛者は、やはり強すぎる自己愛のためにリビドーが男根に束縛されてしまったのだとされる。

 ここでは詳しく説明しないが、現在では、フロイト理論の根本にあるエディプス・コンプレックスがデタラメ(フェイク)であることが明らかになっている。近親相姦は遺伝的に脆弱な子どもをつくるため、両性生殖のすべての生き物は遺伝的に近しい相手との性交を避けるなんらかの仕組みを進化の過程で獲得してきた。ヒトの場合は、両親や兄弟姉妹だけでなく、遺伝的つながりのない他人であっても、幼少期を共に過ごした異性に性的欲望を感じなくなるプログラムがあらかじめ組み込まれている(ウェスターマーク効果)。男児が母親を性愛の対象とするエディプス・コンプレックスも、女児が父親との性交を求めるエレクトラ・コンプレックスもすべて作り話だったのだ。――こうした「おはなし(フロイトの妄想)」が広く受け入れられたのは、19世紀末の退廃的なヨーロッパ文化が背景にあるのだろう。

 フロイト自身は同性愛を「病気」とは考えていなかったようだが、それがアメリカに渡ると、精神分析家が同性愛を「治療」対象にするようになった。1950年代の保守的なアメリカ社会では、同性愛の子どもをもつ親だけでなく、同性愛者本人も自らのジェンダーアイデンティティを受け入れることができず、「治療」は大きなビジネスになったのだ。

 精神分析では、ゲイの男性が女性との性交を恐れるのは、「女性器によって去勢の恐怖を思い起こしてしまう」からだとされた。患者は女性への関心をたんに抑圧しているだけで、同性との性交は「すり替えられた性的欲求のはけ口」なので、その不安(去勢恐怖)を取り除くことで治療できるというのだ。

 もちろん精神分析家たちは、すべての同性愛を「治療」できると考えたわけではなかった。幼少期に「ジェンダー不適応」な(男の子なのに女の子のように振る舞った)場合は変化は望めず、その一方で(1)異性愛になりたいという願望を表現している。(2)患者と父親との関係が良好である。(3)異性間の性交を試みた履歴がある。(4)異性愛的内容の夢を見た履歴がある場合は、高い確率で性的志向が変わりうるとされた。

 精神分析的な「治療」は、その理論的な必然として、幼少期の家族関係、すなわち息子に対してきびしすぎる(敵対的な)父親や、息子を溺愛する母親が子どもの健全な性的成長をさまたげたのだとする。これが同性愛者本人だけでなくその家族をも苦しめることになり、1970年代に「病的」と決めつけられた親たちが「レズビアンとゲイの親と友人の会(PFLAG)」を起ち上げたのも当然だった。

 このようにしてフロイト的な「治療」は下火になるのだが、それでも何人かの精神分析家は同性愛を「治療すべき病気」だとの主張に固執し、診断マニュアルから同性愛を削除することに反対した。

 1992年、代表的な“反ゲイ”の精神分析家であるチャールズ・ソカリデスにルベイはインタビューする機会を得た。ルベイがソカリデスに、息子のリチャードはどうして同性愛になったのかと訊くと、ソカリデスはひどく怒りだして、「私が君に、君がHIVに感染しているかどうか聞いたら、君はどんな気持ちがするのかね」といったという。息子のリチャード・ソカリデスは著名なゲイ活動家で、当時、ホワイトハウスで働いていた。

 私には、このエピソードのほうが精神分析にふさわしいように思われる。

行動主義では「性的志向は幼児期の刺激によって形成される」とされた

 精神分析の衰退とともに心理学を席捲したのが行動主義(行動心理学)だった。パブロフの有名な実験(ベルの音でイヌが唾液を出すようになる)によって、脳のメカニズムを解明しなくても(ブラックボックスのままでも)刺激によって行動を操作できることが明らかになった。こうして、J・B・ワトソンやB・F・スキナーらアメリカの行動主義者が、さまざまな実験によって刺激と行動の関係を明らかにしていった。

 こうした行動主義の流れから、「性的志向は幼児期の刺激によって形成される」との説が出てくるのは必然だった。行動主義者によれば、同性愛とは、最初にオーガズムに至る性的接触をもった相手がたまたま同性だったという「誤った刺激」から生じるのだ。

 行動主義者たちは、幼児期や少年・少女時代に同性に性愛を感じないようにすれば同性愛は「予防」できると主張した。アメリカで男女共学が急速に普及したのは、「早期に異性愛を実践させて同性愛を防ぐ」目的もあったようだ。イギリスの伝統的な私立寄宿学校では男子と女子が隔離されるが、アメリカにはこうした教育手法は移植されなかった。

 行動主義の理論では、当然のことながら、「正しい刺激」を与えることで同性愛を(「予防」だけでなく)「治療」することも可能になる。これが「嫌悪療法」で、患者(同性愛者)に裸の男性のスライドなど性的刺激となるものを見せ、それと同時に、患者にとってなにか不快なことを行なう。すると「パブロフのイヌ」と同じ原理で、患者の同性愛的欲動が減少するとされた。

 このときに使われた「嫌悪刺激」のひとつはアポモルヒネという薬物の注射で、患者に吐き気や嘔吐を引き起こした。もうひとつは電気ショックで、裸の男のスライドが映された瞬間にボタンを押すと、裸の女の写真に置き換わって、電気ショックを回避できるようになっていた。

 これは子どもだましのゲームのようなものだが、同性愛の「脱学習」には、頭部に電気ショックを与えるか、メトラゾールという薬を投与して、てんかんの大発作を引き起こすという暴力的な手法も用いられた。この「痙攣療法」によって、エングラム(反復される思考や習慣によってつくられた脳の痕跡)を断ち切る効果があると信じられたのだ。

 ルベイが紹介する「嫌悪療法」のケースで印象的なのは、ユタ州にあるモルモン教徒の教育機関、ブリガムヤング大学の学生、ドン・D・ハリマンだ。1970年代当時、モルモン教は同性愛を否定し、同性に惹かれる感情をもつ信徒を「治療」しようとしていた。

 ハリマンは敬虔なモルモン教徒で、自分が同性愛者であることに気づいたとき、神の命に従って自らの性的志向を変えることを誓った。大学はハリマンを嫌悪療法のプログラムに送り込み、1年間のあいだに85回の電気ショック治療を受けた。この治療は「身体的外傷(火傷)」と「感情的外傷」を引き起こしたが、ハリマンはこれに耐えた。当時の心境をハリマンはこう述べている。

 「人びとが、手が血で真っ赤になるまでドアを叩き続けるべきだと、私に何度も言うのを思い出した。私は絶望しながらも苦しんでおり、それゆえ受難者である。そうであるからには、私がしてきたことはやはり正しかったと証明できた、と感じ始めた」

 1年後、ハリマンは治癒したと診断されたが、数カ月後には男性のルームメイトと恋に落ち、管区長の司教にそのことを打ち明けた。すると、教育心理学の博士号をもっている司教はハリマンに、「同性愛は治療できず変えることもできないことが分かっている」と告げたのだ。

 それでも司教としては、公式の教会の立場を支持せざるを得ないといわれたハリマンは憤慨し、自分の同性愛を受け入れ、ゲイ・コミュニティの活動的な一員になったという。


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