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個人情報保護法で環境が一変
――個人情報保護法は、合格者特集にも大きな影響を与えたのではないかと思います。
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1956年兵庫生まれ。灘中学校・高等学校から早稲田大学政経学部に入学。在学中、世界各地を放浪し、占い師の見習いも経験。卒業後、1983年大学通信に。同社常務取締役と情報調査・編集部ゼネラルマネージャーを兼ね、さまざまな媒体に大学情報を提供してきた。中学受験から大学入試まで語れる希有な人材だった。2022年3月13日逝去。
中根 特集をやめるという考えには、「これはサンデー毎日の伝統だからやめてはいけない」という意見も強く、続けることになったのですが、だいぶ体制も縮小されました。その頃から週刊誌の部数も下降気味で、2005年から翌年にかけて、存立に関わる事態ということで、てこ入れのため新機軸を打ち出すようになります。
東大特集号で週刊朝日に負けるようなことが起き、教育担当のデスクに私が就くことになりました。編集長からは、「秋からだけだと思うな。一年中教育企画をやれ。でも、人は付けない。お前一人で大学通信とうまくやれ」と。大学通信と一緒に特集などを考えることになり、昼は編集作業があるので電話で安田さんと相談し、夕方には直接会いに行くというような毎日でした。
――こうした事態をどのようにして乗り越えていったのでしょう。
中根 とにかく合格者の名前を出せなくなってしまったので、学校からの聞き取りで人数だけをまとめるようになりました。そのとき問題となったのが、合格者が1人とか2人だと結果的に誰だか名前が分かってしまうので、これは個人情報だから出せないと、合格者数ですら出さない学校が出てきたことです。
後藤 本当は、高校としては学校名を出してほしい(笑)。
中根 でも、校長の立場としては出せない。合格者数が2人、3人の学校から情報を得るのがきつかったですね。
後藤 まだ、いまほど高校も生徒募集がきつい時代ではなかった。それから10年後には募集が大変になって、積極的に合格情報を出すようになったわけです。
中根 当時は私立の武蔵ものんびりしていましたが、それが積極的に出すようになった背景には、卒業生の存在があります。「なんでうちだけ出ていない?ゼロなのか!」と、編集部に電話が掛かってくる。元社員のOB記者からも「どうなっているんだ」と言ってくる。
「何度言ってもダメなんですよ。先輩から言ってくれませんか」とお願いしたら、それが効いたようです(笑)。「学校がのらりくらりしているから、何人かで電話するようにするわ」と言いだしまして。
後藤 電凸が始まった(笑)。
中根 そうしたら翌年から、学校側の対応がコロッと変わりました(笑)。それだけ楽しみにしている人がいっぱいいるということです。
――個人情報保護よりOBの圧力が勝ったというわけですね。
後藤 国立の付属校も、学校によって対応が違いますね。筑波大学附属は昔から対応してくれましたが、東京学芸大学附属や筑波大学附属駒場はそうでもなかった。
中根 最近は少し変わってきて、筑駒からも1週間遅れくらいで届くようになりました。