ハブ的な役割を果たした安田さん
中根 中嶋嶺雄先生のように、高等教育機関の中で起きている話などをしてくれる先生が私の知り合いにも増えてきて、そこで聞いた話を、安田さんにぶつけると、安田さんならではの分析をしてくれて、話題に広がりが出てくるわけです。
後藤 仕事以外はとてもずぼらという噂も聞いていましたが(笑)、やっさんは話がうまかった。
中根 大学を休学して世界を放浪して、国内では占い師のアルバイトをしていたんですよね。方位か何かの占いで、見立てがいいからと、その占い師の後継者にならないか、という話もあったようです。
後藤 そういった話題で場を盛り上げる。安田さんが原稿を書き始めたのもこの頃からですよね。
中根 それまでは現場でデータ担当でしたが、2000年頃から原稿を書き始めた。最初は書いた原稿を、社会部出身のデスクが「数字はいいが、事実関係の前後が変だ」といった具合に全部書き直したりして、本人はぼやいていました。
後藤 ただまあ、大学入試から中高受験、そして小学校のお受験まで、一人で全部語れる人は安田さんだけでした。これらの学校に時間軸という縦軸を通して原稿を書くことができるような人は、いまもいません。
中根 俯瞰して見ておられた。どんな人でも付き合ってくれましたから、学校関係者のハブのような存在でした。デスクだった時はあまり出歩けなかったものの、安田さんが近畿大の世耕石弘さん(現・経営戦略本部長)をはじめ、全国の大学や中高一貫校の人を紹介してくれたのはありがたかったですね。
後藤 2008年秋にリーマンショックがあり、中学入試も受験生が減りました。それに追い打ちをかけたのが、2011年3月11日の東日本大震災でした。
中根 3月10日に東大の合格者発表があった翌日のことで、あの日はほぼ徹夜状態で東大号の編集作業をして、朝6時にようやく終わった。合格者データのトラブルがあって、「始末書ものだぞ」と言われるくらい降版時間が押していました。お叱りを受けているときにあの地震が来て、チャラになりました(笑)。
当時、お茶の水の丸善の6・7階に大学通信はありましたが、帰宅できず、パレスサイドビルの出版局にあった会議室に、女性を中心に15人くらいの社員が避難してきました。安田さんがお酒飲んでいい気分になって騒いでいたら、他の編集部から「うるせえ」と怒鳴られていました(笑)。
後藤 そのあと、二番町に大学通信は移転していきました。
中根 実は、東大号が終わった翌日から早稲田大と慶應義塾大のデータをもらわないといけなかったのですが、慶應は合格者データをフロッピーディスク(FD)で渡していました。電車は動いていないし、道路は大混雑で取りに行けない。計画停電も始まって、電話もつながらない。
12日の午前中の段階で、早慶特集号の発刊は難しいという話になりかけた頃、慶應からデータが届いた。この震災をきっかけに、FDでの受け渡しをやめたのです。
後藤 当時、大学入試センターもデータはFDで手渡しの時代でした。そういうところはかたくなでした。