変化を余儀なくされる大学での教育
戦前や戦後初期のように大学進学率が低く、大学が一部の優秀な人材のための組織だった頃は、旧制高校で教養を身に付け、今日では大学院レベルといっていい旧帝国大学に進学していた。大学進学率が上がり、団塊の世代が大量に進学した1960年代後半から先、大学はユニバーサル化への歩みを始めた。
1991年に大学の設置基準は大綱化され、教養課程が廃止されて、学部生の資質は変わった。いまや、本当に専門性を身に付けるには大学院レベルの教育が欠かせないのだが、海外のようなプロフェッショナルスクールが成立しにくい日本の風土はいかんともしがたい。まだまだ生涯にわたって学び続けられるための環境は整っていない。これに対しては、企業などが働き方改革を進めて、学ぶための時間的な「余白」を生むことが必要となる。
慶應義塾の学園としての源流は慶應義塾普通部に受け継がれているように、「普通」とは「普(あまね)く」「通じる」ものである。中高での中等教育は、学問を今後学んでいく上での素養・スキルを培うことにある。
その一方で、私大文系の専願で象徴的な「私大文系3教科(国語・英語・地歴公民)」は、高校での学習に偏りを生んでいる。人文・社会科学系と自然科学系では必要とされる素養が異なることは確かであり、大量の受験生から短期間に選抜する大学側にとっては合理性があった。
しかし、こうした入試が今後もそのまま続くことは考えにくい。例えば、歴史科目が暗記した知識しか問えないというのであれば、積極的に歴史科目を受験科目から外して、英語や国語といった言語スキルや課題解決と合わせた総合問題として課すことが大学の良識となる。数学や理科などでは概念を理解してスキルを積み上げることが求められるから、自然科学系では従来とあまり変わらず学力試験に重点が置かれることになるのかもしれない。そこでは、自分の力で考え抜いて問題を解いていく“意欲”は欠かせないだろう。
コロナ禍が開いたパンドラの箱では、知識伝達のための授業はオンラインによる動画配信で十分であることが周知された。教員が一方的に話す大教室での講義は、本を読みこなすよりも圧倒的に効率的である。だが、全国の大学がこうした講座を独自に設置する必要はない。今後の教員不足を考えると、こうした講座は大学同士でシェアすればいい。
今後、教育のサイズが小さくなり、大きなコストを負担することになる大学にとってはありがたい流れだろう。これからの大学は、専門科目の充実を示さなくては存在意義を失う。大学選びの重点は、専門のカリキュラムとゼミや研究室、それを担う教員によるところが大きくなる。
これまで見てきたように、少子化や産業構造の転換の影響を受けて、大学も大学入試も今後大きく様変わりしていく。選抜機能が緩和する中、主体的に学ぶ“意欲”の重要さが大学入試でも必要となるし、生涯にわたって学び続ける姿勢としても問われていくことになる。2030年の大学入試がどのような姿になるのか、これから数回にわたってさらに詳しく見ていきたいと思う。
※次回に続く