「知らない」と言えない教員が招く不幸
河添 今の「探究」の時間は、生徒や先生方の間に、何かすごいことをやらなければダメだという風潮ができているように思えます。それをサポートする業者もたくさん見かけます。
――学校の先生はどうしても格好つけてしまう。「好奇心もすべて知的でなければいけない」とか(笑)。
河添 それは大間違いです。先生は生徒の「探究」の成果でもって総合型選抜の入試対策を考える。その結果、先生はすごく難しい課題を「探究」に出して、生徒と一緒に一生懸命に調べています。場合によっては先生が主となる(笑)。そもそも大学の先生は、総合型選抜の選考の際にそういう“成果”を絶対評価していないと思いますよ。「すごいね」「あっ、そ」ぐらいかな。
高校の先生は大学で卒業論文を書いた経験があると思います。その経験から「探究」の知識レベルが試されているのだと思い込んでいます。ただ、卒論は、アカデミックな観点から見れば初歩的なものです。大学の4年間をかけてもその程度です。
ならば高校の探究はアカデミックにこだわる必要はなく、もっと楽しいこと、簡単にできること、自分たちにしかできないこと、将来につながることを見つける方が、よほど「探究」的だと思います。
――「自分は全部知っているんだ」という思い込みから教員が早く抜け出すには、自前主義をやめることです。国際バカロレア(IB)では、「教員がすべてを知っている必要はない。それよりも生徒をいかに探究的にできるか」が重要と言われています。自分ができないことは、できる人に頼めばいい。
河添 慶應義塾大湘南藤沢キャンパス(SFC)のAO入試でも、学会誌に論文を投稿したことのある受験生が時々いました。それは「良かったね」「すごいね」であって、本当に知りたいのはその後「大学に入ってからどうするの」です。伸びきってしまった子ではなく、伸びしろのある子を採りたい。先生方の優秀な受験生の共通認識は、その受験生を自分の研究会(ゼミナール)に入れたいか、でした。複数の先生が「イエス」であれば合格する。
――基礎学力(知識技能とその活用)と学ぶ意欲さえ担保できれば、あとは先生が採りたいと思う受験生を選べばいい。アメリカの大学の入試も大体そのようなものです。
河添 文部科学省は「教育の目的は生きる力を養うこと」と明確に言っています。それが教育の現場にはきちんと下りてこない。現場の先生方は、とにもかくにも偏った偏差値社会の仕組みの中で、受験指導でもがき苦しんでいる。
――いまの中1生はかつてとはまるで違う受験状況になります。知識を積み上げていって挑むような一般選抜以外の合格者数が、2023年の段階で半数を超えましたから。それにもかかわらず、教員の意識は従来のままです。
河添 入試が多様化し、総合型選抜が増えることは好ましいと思います。でも、総合型選抜というのは「点」ではなく、高大が接続する「線」でなければいけない。ところが実際は途切れています。入試が終われば、従来のカリキュラムで大学生活を送る。「人を育てる」という視点が欠けています。中高大と連続的に人を育てる視点がもっと必要です。
それには従来の形にこだわらない教育改革が求められます。「探究」はそこに位置付けられるべきものです。でも、教育の現場は保守的です。それは変革を恐れているからです。自分たちがやってきたことを守ろうとする。これでは生徒に探究を求めるのは無理です。
生徒や学生たちには、「多様性を受け入れて、これからの国際社会で生きていけ」と言っているのに学校自体は昔ながらのまま。このような学校で生徒や学生が育つのか。自己矛盾ですよね。
――やはり前回でもお話があったように、「知識偏重」から「探究」へと学びの軸が変わると、自分たちの立場が危うくなると思ってしまうからでしょう。例えば、文理選択は一般選抜の科目に絞って合理的に学ぶためのもの。一般選抜を受けなくなっているのに、なぜ高校は変わらないのか。
河添 私は中高の教員免許を持っていないので、現場のことに詳しいわけではありませんが、校長として着任して最初に気付いたのは、先生方が学習目標の達成度合いを判断するためにルーブリックを一生懸命書いていたことでした。
でも、そこでエネルギーを使うくらいなら、もっと生徒と接した方がいいのではないか。大学でのシラバスも同じで、ちょっとずつ変える先生もいれば、10年間同じという先生もいる。これはもう、制度としては死んでいるわけです。自信を持ってきちんと授業をすればいいし、もっと本質的に大事なことに力を注ぐべきでしょう。
型をつくると、型をつくったこと、型にはまったことで達成感を得てしまう。でも、背景にはそこまでしないと教育の現場の質が保てないという現実があるのでしょうね。
――授業案も同じです。生徒がそんなに変わらないのに、先生たちは毎年書かされています。