われわれは再び教育ある人間とは何であるか<br />見直す必要に迫られているダイヤモンド社刊
1785円(税込)

「今日、経済的には、知識が真の資本となり、富を生み出す中心的な資源となりつつある。そのような経済にあっては、学校に対し、教育の成果と責任について、新しくかつ厳しい要求が突きつけられる。さらにまた、今日、社会的には、知識労働者が中心的存在となっている。そのような社会にあっては、学校に対し、社会的な成果と責任について、もっと新しく厳しい要求が突きつけられる。学校に対する社会の要求は、経済からの要求よりもさらに厳しいものとなる」(『新しい現実』)

 ドラッカーは、学校に対して、二つの要求を行なう。

 第一に、肉体ではなく知識が中心の社会となったからには、知識の変化が急である。繰り返し、知識の更新を図っていかなければ、急速に時代遅れとなる。

 しかし、いかなる学校といえども、必要とされるすべての知識を与えることは不可能である。そこで必要となるのが、“学習の方法”を教えることである。方法論、自己啓発、ハウツーを馬鹿にしてはならない。近代合理主義は、デカルトの『方法序説』から始まった。

 第二に、知識が中心の社会では、知識ある者がリーダーの役を務める。ということは、知性と、価値観と、“道徳観”が要求されるということである。

 今日、道徳教育は人気がない。ドラッカーによれば、これまで、あまりにしばしば、思考や、言論や、反対を抑圧するために濫用され、権威への盲従を教えるために使われてきたせいだという。

 つまり、道徳教育自体が、非道徳的だった。しかし、このままでは、若者は間違った価値観を植えつけられる。人は、必ずなんらかの価値観を持つ。

 高邁な価値観を持つかもしれなければ、低劣な価値観を持つかもしれない。あるいは、少なくとも、無関心、無責任、無感動のいずれかにはなる。

 知識社会における道徳教育については、論議も大いにあるはずである。しかし、教育が道徳を伴い、かつ、それを重視すべきものでなければならないことだけは間違いない。知識と知識労働者には責任が伴うからである。

「学校と教育が、今日きわめて大きな変化を前にしていることは、確かである。知識社会がそれを要求している」(『新しい現実』)