だが自民党は1986年の衆参同日選挙を前に「全国画一からローカル優先のサービスに徹します」「ローカル線(特定地方交通線以外)もなくなりません」との意見広告を新聞各紙に掲載するなど、どちらでもないバラ色の未来を約束した。分割民営化に否定的な人々に「公約違反」と指摘される所以である。

 もっとも公社としての日本国有鉄道が38年の命だったのに対し、JRは発足から35年が経過し、まもなく国鉄よりも歴史が長くなる。葛西氏は2017年にダイヤモンドオンラインのインタビューで「あらゆる制度設計なんて30年も持ちやしないんです」と開き直りを見せているが、人口減少、景気低迷、道路整備などあらゆる環境の変化を考えれば、分割民営化の制度設計が時代にそぐわなくなったというのにも一定の説得力はある。

 しかし民営化はともかく、分割については早くから雲行きが怪しかった。国鉄清算事業団はバブル期に地価高騰を防ぐため土地売却が差し止められたことで、国鉄から引き継いだ債務をさらに増やして解散した。新幹線保有機構は前述の通り、JR東海の強い反対で解体された。バブル期の高金利は経営安定基金の運用益に繋がった一方で、国鉄債務を引き継いだ本州三社にとっては負担となった。ところが超低金利になると本州三社の金利負担が大幅に緩和し、反対に経営安定基金は機能しなくなった。

 これらは分割民営化の旗手である葛西氏自身が認めているように。この35年で生じた問題ではなく、35年前から変わらずに存在していた欠陥だった。

 第二臨調は答申の中で「分割・民営化に当たっては、分割後の各会社が経営努力をし、創意工夫をすれば、採算性を回復し、自立できるという目途と自信を持ちうるように配慮する必要がある」と述べているが、結果だけ見れば分割スキームにその精神は宿らなかったと言えるだろう。国鉄改革は、いまだ終わっていないのである。