藤原道長の婿入り先の邸宅
土御門殿の跡地はどうなってる?

 しかし、このころ、すでに貴族たちは快適な平安京の北東の隅とその東側の鴨川に近い辺りに邸宅を建てることを好むようになっていた。現在の京都御苑およびその東側の鴨川までの間の地域である。

 そのなかでも、特に有名なのが、左大臣源雅信の邸宅で、藤原道長が、雅信の娘である源倫子(大河ドラマでは黒木華さんが演じている)と結婚して婿入りした土御門殿である。一条天皇の元に入内した彰子が里帰りして後一条天皇を産んだのもここで、その模様は『紫式部日記』のクライマックスである。

 その場所は、京都御苑に寺町通から清和院御門を通って入ってきた辺りで、北側には京都迎賓館があり、その南側一帯を土御門殿が占めていた。現在はその跡地の西側部分が仙洞御所の庭に組み込まれている。

 道長の三女の威子が中宮となり、太皇太后彰子、皇太后妍子、皇后威子と、三后を自らの娘で独占した祝宴で、道長が「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだのもここだ。

「御堂関白」という藤原道長の通称は、鴨川のほとりに法成寺という宇治の平等院のモデルになった寺院を創建したことにちなむものである。

 その土御門殿と東京極大路(現在の寺町通より少し西にずれている)を挟んで向かい側には法成寺の伽藍があった。鴨沂高校の辺りから河原町通を越して鴨川の堤までで、京都府立医科大学の敷地の南半分を含む。

『栄華物語』などによれば、1019年に出家した道長が無量寿院(阿弥陀堂)を建てたことを始まりとし、金堂・五大堂・西北院・五重塔などが建立され、1022年に寺号を法成寺とした。

 阿弥陀堂は西方浄土の方角にあり、前には大きな池があり、9体の阿弥陀如来像が並んでいた。これは浄瑠璃寺の阿弥陀堂と似た風景だったらしい。

 道長は、1027年12月4日に死去したが、阿弥陀堂で9体の阿弥陀如来の手と自分の手を糸でつなぎ、浄土へ旅立つことを祈りながら大往生したという。また紫式部が仕えた彰子もここで亡くなった。

 法成寺は、1058年に全焼し、再建されたが、鎌倉時代に入ると荒廃し、吉田兼好の『徒然草』には、土御門殿と共に廃虚となっている様子が描かれている。