先週大学院の成績発表があり、無事1年目が終了した。今回のコラムでは、この1年間の経験から自分なりに考えた社会人にとっての大学院の意味を整理してみる。

受け身だと価値はほぼゼロ。
価値を引き出してナンボ

 私も入学当初は大学の延長線上の感覚で授業を受けていたが、それだけだと知的好奇心が満たされるだけで終わってしまう。そこで、よくよくカリキュラムを確認してみると、先行の研究論文の内容を読みこなして体得できるように、そして自らが研究活動をする際の便利な知識やツールが用意されていることに気づく。そう、やはり大学院は“研究”をする場所なのである。

 しかし、特に社会人大学院の場合は、実際には何か研究したい明確なテーマを持って入学してくる人よりも、何となく学びたいという漠然とした思いで入学してくる人の方が多い。私も後者の部類であった。そういう場合、講義を聞いているだけで大いに学んでいる気になってしまう。しかし本来は、その講義内容を教わるのが最終目的ではなく、そのさらに上にある研究分野にたどりつくための踏み台として講義は存在するのである。

 それに気付いてからは、私も遅ればせながら先行論文のデータベースにアクセスし、自らの研究活動を開始したが、先行研究の量の多さと質の高さにはただただ舌を巻く。実務だけでは決して得ることができない数々の成果。そして「この論文にもっと早く出会っていれば、実務で顧客に対してベターな提案ができたのに」と思うようなものもたくさん出てくる。

実務は知っているか
知らないかだけの世界

 一時、実務を経験したことのある人が大学や大学院の先生にスカウトされて人気を博した時期もあったようだが、最近ではまたアカデミックで地道に実績を積んできた教授の方が重宝されるようである(もっとも、両方に実績の深い人がベストであることは言うまでもない)。アカデミック型の教授の「知識の深さ」と「幅の広さ」が求められているのだ。実務経験者は(別途アカデミック界でも実績を残した人なら話は別だが)、自らが知っている実務分野以外のことは深くは知らないので、学際的に教えることが不得意となってしまう。

 また、社会人大学院の場合、生徒の中には実務に関してはエキスパート級の人間も存在する。そんな場合は下手すると実務経験者の先生と同レベルの経験を持っている場合もある。実際、周りを見てみても、上場企業の役員やファンドの責任者など、むしろ檀上で教える側に回っていてもおかしくないという生徒がゴロゴロしている。そういう場合は、アカデミックに強い教授が、社会人生徒に「現場ではどう適用している?」と話を振ることで、両方のエッセンスを得ることができる。