超有能で好人物なのに…
何の業績も出せない経済学者
本連載「黒い心理学」では、ビジネスパーソンを蝕む「心のダークサイド」がいかにブラックな職場をつくり上げていくか、心理学の研究をベースに解説している。
今日から新年度となり、多くの人が新しい環境で過ごす日が始まる。新しい職場、新しい学校、新しい地域に引っ越した人もいるだろう。それは、新しい社会関係に飛び込んでいくことを意味する。
そういう環境におかれると、当然ながら人は「期待」と「不安」の両方が入り混じった一種の興奮状態となる。その状態が収まると、精神的にも肉体的にも「疲れ」が生じる。身体がだるい、よく眠れないといった身体的症状だけでなく、落ち込んだ気分になる、職場や学校に行くのが面倒、といった変化が生じる。いわゆる「5月病」と言われる状態がそれだ。程度の差こそあれ、新しい環境による緊張とその後の疲れは、誰にでもある。
だが、環境によっては、その状態が極端になり、仕事や生活に支障をきたす場合もある。
A氏は非常に優秀な経済学者だ。専門であるゲーム理論の分野では、ノーベル賞研究者の孫弟子格にあたり、高度な数学を難なく駆使する。プログラミング技術も一流で、いくつかの言語を扱える。そのため、行動経済学など、最近流行りの実証系の研究グループにも参加しており、そこでも素晴らしい才能を発揮している。
人間的にも驕ったところがなく、穏やかでユーモアに溢れた、好人物である。
だが、残念ながら彼には業績といえるほどのものがない。学術論文の掲載や権威ある学会での発表が、学者の最も重要な業績となるが、そのためには、論文を投稿し、査読者の批判や要望に応じて、書き直しや、データの取り直しを行う必要がある。一流の雑誌や学会では、査読者に回される前に拒否されてしまうケースも少なくない。
彼ほどの実力者ならば、一流雑誌や一流学会でも、ある程度受け入れられるはずである。これは彼の周りの専門家の皆が認めているのだが、彼自身は驚くほど、そういうことには消極的なのだ。
その理由がわかったのは、A氏の学会発表を見たときだった。驚いたことに彼は、まったく別人のようだった。
発表に使ったパワーポイントは、充実していた。手に持っていた資料にも、びっしり書き込みがしてあり、準備を十分に行っていたことがわかる。だが、彼は全く話すことができない。汗が滝のように出て、それをハンカチで拭きながら、しどろもどろに話し出すが、まったく文章にならない。そうやって自分がどもってしまっていることに、焦るあまり、またわけのわからないことを話し出す。
そうしているうちに発表時間が終わり、結局彼は実質的には何も話すことができなかった。聴衆は彼のパワーポイントの内容と、事前に配られた論文の内容を頼りに、理解するしか術はなかった。
質疑応答の時間では、彼の発表の仕方をあからさまに批判するような大人げない指摘はなかったものの、理解できなかった部分について詳しい説明を求めるような質問がいくつか出た。それらの質問は、そんなに難しいものではなかった。普段の彼ならば、難なく答えられるものだったはずだ。だが、彼は発表時と同じく、しどろもどろのまま、ロクに答えることはできなかった。