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ニッポン 食の遺餐探訪

「雪平鍋」がプロの料理人に熱愛される理由

樋口直哉 [小説家・料理人]
【第42回】 2016年5月11日
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 話題としてはすっかり風化してしまったけれど、和食がユネスコの無形文化遺産に登録されてもうすぐ3年になる。無形文化遺産はその文化の保護と継承を目的としている。

 登録時の定義では和食=一汁三菜を中心とした家庭料理だったが、実際にどれくらいの人が満足な食事をとれているのだろうか。

 一汁三菜は難しくても、一汁一菜に漬け物、つまり炊きたてのご飯と味噌汁、それに煮物と漬け物があれば充分な食事になる。ご馳走はレストランで食べればいいので、普通の食事こそ家で食べたい。

雪平鍋。鍋の厚みは熱を均一に回すために重要な要素

 和食で出汁を引く、青菜を茹でる、煮る、炊く、といった調理をするのに欠かせない道具が雪平鍋(正確には行平鍋とも)だ。『昭和初期頃の一般家庭には必ず「ジフナベ」と呼ばれる鉄製の鍋と伊賀焼きの行平鍋があった。行平鍋は陶器でできた底の浅い片手鍋で、焜炉や七輪で用いられた。主に粥や汁もの、煮物を煮る』(『食の民俗学事典』)とあるように元々、行平鍋とは陶器製の鍋のことだった。

 では、いつから今の形になったのだろうか? 伝承料理研究家の奥村彪生氏は金属の行平鍋は江戸時代後期、染料や革細工などに使う膠を煮溶かすための道具として京都で生まれた、としている。前掲の本とは時代が多少、前後するが、奥村氏の話では明治期に料理屋に広まり、大正末期に都市ガスの普及にともなって定着したという。

 お馴染みのアルミの雪平鍋が世の中に広まるのは昭和20年代中頃。軍需品だったアルミが民間でも扱えるようになり、軽く安価なアルミ鍋が一気に普及した。槌目の模様が雪のように見える、ということから雪平鍋という漢字があてられ、現在に至る。昭和30年代には奥村氏が勤めていた料理教室でも生徒は包丁と雪平鍋を買い求めていたという話だ。しかし、最近は鍋の種類も増えたこともあり、以前ほどの存在感はない。

槌目が美しい
「アルミの雪平鍋」ができるまで

 製造工程を見学するために、以前、当連載で銅の卵焼き器を扱った時にもお世話になった足立区にある中村銅器製作所を訪ねた。中村銅器製作所の雪平鍋は伝統ある日本橋の老舗、木屋にも納められている品だ。

 三代目の中村恵一さんからお話を伺った。

──アルミの雪平鍋はいつ頃から製造されているんですか?

 「いつ頃……かなり昔ですね。元々は銅でつくるものなんです。でも、安くて、軽く、使いやすいということで、アルミでもつくるようになりました」

 この日は段付きと呼ばれる両取っ手がついた雪平鍋の製造を見学させていただいた。

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樋口直哉 [小説家・料理人]

1981年生まれ。服部栄養専門学校卒。料理人として活動する傍ら、2005年、『さよならアメリカ』で群像新人文学賞を受賞し、小説家としてデビュー。ほかの作品に『月とアルマジロ』(講談社)、『大人ドロップ』(小学館)、『星空の下のひなた。』(光文社)、『ヒマワリのキス』(徳間書店)、『アクアノートとクラゲの涙』(メディアファクトリー)がある。

 


ニッポン 食の遺餐探訪

和食を世界遺産に、という動きが農林水産省を中心にはじまっている。日本料理はここ十年余りの世界的な流行になり、外国の料理人の多くも関心を持っていて、誰もがそれを理解しようとしている。しかし、当の日本人の多くは日本料理を理解できていないのではないか。そこでこの連載では、日本の食を支えている道具や食材をつくっている生産者、職人を訪れて、私たち日本人が知らない日本の“食の遺餐”を紹介していく。 

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