橘玲の日々刻々 2020年6月4日

ブレグジットとアメリカのトランプ大統領誕生に多大な影響を与えた
ケンブリッジ・アナリティカ事件の内幕と「行動マイクロターゲティング」の手法
【橘玲の日々刻々】

 ブリタニー・カイザーの『告発 フェイスブックを揺るがした巨大スキャンダル』(ハーパーコリンズ・ジャパン)は、ケンブリッジ・アナリティカ事件の内幕を描いたとても興味深い本だ。それに加えて、いまアメリカ全土で起きている混乱の背景を知ることもできる。といっても、まずは「ケンブリッジ・アナリティカ(CA/Cambridge Analytica)」とはなんなのか、から説明しなくてはならないだろう。

 2016年は現代史に長く記憶される2つの大きな政治的事件が起きた。いうまでもなく、イギリスの国民投票でのEU離脱(ブレグジット)とアメリカのトランプ大統領誕生だ。選挙コンサルティング会社であるケンブリッジ・アナリティカは違法に収集した有権者の個人データを使って両者の選挙結果を操り、「(リベラルにとっての)災厄」をもたらした悪の元凶としてはげしく非難され、この「データゲート事件」によって2018年に会社は消滅した。

 『告発』の著者ブリタニー・カイザーは1987年にテキサス州ヒューストンに生まれ、シカゴで育ち、イギリスで大学教育を受けたあと、博士論文を書きながら給料のいい仕事を探していた。カイザーは共働きの裕福な家庭に育ったが、エンロンに勤めていた母親が2000年の倒産(エンロンショック)で仕事を失い、ついで父親が経営していた不動産会社が2008年のサブプライム危機(リーマンショック)で破綻し、うつ病を患ってしまったのだ(その後、じつは脳腫瘍だったことがわかる)。

 カイザーは熱烈な民主党支持者で、大学生のときに、オバマ前大統領の2008年の選挙運動にソーシャルメディア担当として参加した。そこでコンサルタントの仕事に興味をもったが、2016年の大統領選に向けてのヒラリー・クリントンのキャンペーンや人道支援運動にはよい仕事がなかった。

 2014年、カイザーはオバマの選挙活動で知り合った友人から、中央アジアのある国が選挙活動でソーシャルメディアに詳しいコンサルタントを探していると、ロンドンのレストランでの会食に誘われた。そこには同じように売り込みにきていた男がいて、アレクサンダー・ニックスと名乗った。

 ニックスはケンブリッジ・アナリティカのCEOで、1975年生まれだからそのときは40歳前だった。カイザーは26歳で、この出会いをきっかけにニックスから入社を誘われ、波乱に満ちた3年間を過ごすことになる。

 本書の原題は“Targeted: The Cambridge Analytica Whistleblower's Inside Story of How Big Data, Trump, and Facebook Broke Democracy and How It Can Happen Again”(『ターゲットにされて ケンブリッジ・アナリティカ内部告発者のインサイドストーリー。ビッグデータ、トランプ、フェイスブックはどのように民主政を破壊し、それはどのようにもういちど起きるか』)。Targetedとは、自分がターゲットにされたことと、ケンブリッジ・アナリティカが有権者をターゲットに選挙結果を操作していることをかけているのだろう。

ケンブリッジ・アナリティカが誕生した経緯

 まず、本書と英語版Wikipediaを参考に、ケンブリッジ・アナリティカの数奇な短い歴史をまとめてみよう。

 1989年、ナイジェル・オークスというイギリス上流階級出身のビジネスマンが非営利のシンクタンク「行動ダイナミクス研究所(BDI/Behavioral Dynamics Institute)」を設立した。オークスは貴族の生まれで、イートン校で教育を受け、グローバル広告代理店サーチ&サーチやテレビ制作の仕事をしたのちBDIを設立した。その趣旨は「コミュニケーションを通じて人間の行動を理解し、その行動に影響を与える方法を研究する」ことで、ケンブリッジ大学の心理学研究者などといっしょに、行動心理学、社会心理学、脳科学などの最新の知見をマーケティングに活用して商業利用する可能性を探ろうとした。――オークスは、イギリス王室の親戚でもあるレディ・ヘレン・テイラーの「2人目の真剣なボーイフレンド」としても知られている。

 1993年、オークスは「心理学者や人類学者によってもたらされた学術的な洞察を使って従来の広告手法をより実り多いものにする」ために「戦略的コミュニケーション研究所(SCL/Strategic Communication Laboratories)」を設立した。BDIはSCLの非営利の外郭団体(約60の学術機関と数百人の心理学者からなる共同事業体)となり、エリザベス女王のいとこが理事に名を連ねた。こうした経緯を見るかぎり、「イギリスの上流階級が大衆を操作する手法を研究し、実践するためにつくった会社」というのがその実態のようだ。

 アレクサンダー・ニックスはロンドンの高級住宅地ノッティングヒルで育ち、イートン校で学んだあとマンチェスター大学で美術史の学位を取得し、メキシコで英系投資銀行の融資の仕事をしていた。ニックス家はイギリスのジェントリー(地主階級)出身で、祖先は東インド会社で財をなし、父親は投資銀行家で、SCL創設者ナイジェル・オークスの友人かつ同社の株主でもあった。

 2003年、28歳のときにニックスは投資銀行を辞めてSCLに参加する。当時は9.11同時多発テロ(2001年)の余波で、各国がテロ対策にちからを入れたこともあって、SCLはいくつかの政府のパートナーになっていた。だが世界金融危機で防衛予算が削減されると、これまでのやり方では利益をあげられなくなり、2010年にオークスはSCLをニックスに任せ、選挙コンサルティングビジネスへと転身を図ることになる。――同じ年に、ニックスはノルウェーの億万長者一族の女性と結婚している。彼女はロンドンで育ち、ニックスと同じく馬術とポロの熱心な競技者でもあった。

 SCLを引き継いだニックスは、営業のターゲットをアメリカに定めた。2008年につづき12年の大統領選でもオバマに完敗した共和党=保守派は、従来の選挙活動ではITとSNSを駆使する民主党に対抗できないとの強い危機感を抱いていた。

 そんなところに「イギリス上流階級」の洗練された若者が、最先端の心理学とビッグデータを駆使した選挙戦術を売り込みにきた。ニックスはたちまちアメリカの保守派に人脈をつくり、オルタナ右翼のニュースサイト「ブライトバート・ニュース」設立者であるスティーブ・バノンと知り合い、バノンから大富豪のロバート・マーサーと娘のレベッカを紹介された。

 マーサーはコンピュータサイエンスの天才で、1970年代にIBMで初期の人工知能を研究したあと、40代後半(1993年)で天才数学者ジェームズ・シモンズが率いるヘッジファンド、ルネッサンス・テクノロジーズに参加し、そこでの成功によって莫大な資産を築くことになる(主要ファンドのメダリオンは1989年から2006年のあいだに年平均39%の収益をあげた)。

 60歳でヘッジファンド業界から身を引くと、マーサーは次女のレベッカとともにアメリカ政治に深くかかわるようになり、「超保守主義のリバタリアン」として、共和党・保守派の主要な資金提供者の一人になっていく。そんなマーサーが、選挙に「科学」を持ち込んだSCLとニックスに関心をもつのは当然だった。

 2012年、ニックスはマーサーから1500万ドルの出資を受けてアメリカで新会社を設立する。「ケンブリッジ・アナリティカ」という社名はスティーブ・バノンが命名したという。

 ここまでが、カイザーがニックスと出会う「前史」だ。ニックスがなんの経験もなく野心しかない20代のアメリカ女性を営業で雇ったのは、アメリカの保守政界に食い込むのに役に立つと考えたからだろう。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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