ステレオタイプ脅威を解消するには「相手(マジョリティ)のナラティブを変える」
ステレオタイプのないところでは、当然のことながらステレオタイプ脅威は起きない。第二次世界大戦後、ヨーロッパではアメリカの黒人は「流行の先端」と見なされ歓迎された。これが、黒人ジャズミュージシャンや黒人作家がヨーロッパで活躍した理由だとスティールはいう。
だが、誰もが「ステレオタイプのない国」に移住できるわけではない。そこで注目されるようになったのが「クリティカルマス」だ。
ステレオタイプ脅威は、自分が少数者(マイノリティ)だという意識から生まれるのだから、自分と同じ属性をもつ仲間が増えれば解消する。たとえばオーケストラでは、女性楽団員の割合が40%に達すると「ステレオタイプ」が消え、男女ともに満足度の高い経験を報告するようになるという。
これがクリティカルマスで、人数がほぼ半々の男女のジェンダーギャップ(社会的性差)を解消する戦略なら現実的だろうが(文系の大学はすでに女子学生のクリティカルマスを達成し、やがて男子学生がマイノリティになるかもしれない)、アメリカの黒人の人口比は13%程度なのだから、学校や職場の人数比をクリティカルマスまで増やすのは困難だろう。
そうなると、人為的にクリティカルマスをつくることが考えられる。「女は数学はできない」というステレオタイプ脅威は女子校では生じにくい。ヒラリー・クリントンは女子校・女子大で学んだが、それが「女にリーダーシップは向かない」というステレオタイプ脅威に打ち勝つのに役立ったのかもしれない。スティールがいうように、「アイデンティティ別に分けられた環境では、ステレオタイプ脅威を大きく下げられる」のだ。
だがこの方法を黒人のステレオタイプ脅威に適用しようとすると、「人種別の高校や大学をつくればいい」という話になってしまう。当たり前だが、このような提案が社会に受け入れらとはとうてい思えない。――こうした主張は、アメリカでは「人種現実主義」を自称する白人保守派が唱えている。
クリティカルマスを達成できない組織(共同体)では、マイノリティはつねに「脅威」にさらされている。そんな環境で「カラーブラインドネス(肌の色をいっさい考慮せずに個人の幸福を推進する)」や「ジェンダーブラインドネス(性差を考慮せずに社員を扱う)」をいくら唱えても、かえって逆効果にしかならない。――ジェンダーブラインドネスを掲げて、男性役員・管理職が圧倒的多数派なら、「女はバカだ」といっているのと同じだ。
このように考えると、ステレオタイプ脅威を解消するには、マイノリティでも安心して学んだり働いたりできる「多様性のある社会」をつくるしかない。こうしたリベラルの主張はしばしが「きれごと」と批判されるが(それには一定の説得力があるとも思うが)、だからといってそれ以外の解を提示できるわけではないのだ。
それに加えてスティールは、「ナラティブを変える」ことが重要だという。ナラティブ(物語)とは黒人が内面化しているネガティブなステレオタイプ(マインドセット)のことで、これをポジティブなものにする「自己肯定化作業」によってステレオタイプ脅威をなくしていくのだ。そのためには、教育機関には「生徒とのポジティブな関係、子どもを主役にした教え方、画一的な戦略ではなく多様性を活用した指導方法、教員のスキル・温かさ・話しやすさなど」が必要だとされる。
それと同時に、「相手(マジョリティ)のナラティブを変える」という戦略がある。
のちにニューヨーク・タイムズのコラムニストとなったブレント・ステープルズは、黒人学生としてシカゴ大学の大学院で心理学を学んでいたとき、夕方になるとラフな格好でキャンパスに近いシカゴのハイドパーク地区(ミシガン湖に面した高級地区)をぶらついていた。
しかしやがて、ステープルズは自分を見た白人たちが一様に同じ反応をすることに気づいた。「カップルはわたしを見ると、腕を組んだり、手をつないだりした。道路の反対側にわたってしまう人もいた。すれ違う人たちは会話をやめ、前方に視線を集中する。まるでわたしと目が合ったら一巻の終わりだとでも言うように……」。
ステープルズは、「自分のことを死ぬほど怖がっている人たち」に「こんばんは」と微笑みかけてもなんの効果もないことを思い知らされる。それでもなんとか無害な存在だとわかってもらいたかった彼は、緊張を解くために口笛を吹くようになった。
ビートルズの曲やヴィヴァルディの『四季』を口笛で吹くと、それを聞いた白人たちの態度が大きく変わった。そればかりか、「暗闇でわたしとすれ違うとき、ほほ笑む人さえいた」のだ。
これが本書に原題になった「ヴィヴァルディを口笛で吹く」だ。口笛でヴィヴァルディを吹くだけで、「暴力沙汰を起こしがちない黒人の若者」から「教養ある洗練された黒人大学生」へと白人のナラティブを変えることができた。
一見奇妙な本書の原題には、白人の差別意識や偏見をいたずらに糾弾・批判するのではなく、それをかわす方法を学ぶべきだという、「成功した穏健な黒人知識人」であるスティールの願いが込められているのだろう。私には、アメリカ社会でこれがどれほど受け入れられるかはわからないが。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)。
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