私が特に奇妙に思ったのは、ケインズ理論の中核である「資産選択の理論」だ。「貨幣と国債の間で資産選択を決める」というのだが、国債などそもそも発行されていなかった。それに、インフレ下では、貨幣を持っていれば、目減りするだけだ。当時の日本人が血眼になって追求した資産選択とは、借り入れをして土地を買うことだった。そうした状況を見れば、健全な常識を持っていた人なら誰でも、ケインズ経済学の基礎とはなんと現実離れした理論だろうと思ったに違いない。普通の感覚を持った人なら、ケインズ経済学を真面目に勉強しようなどという気持ちにはなれなかったはずである(経済学部の学生であれば、試験を受けなければならないから勉強はしただろうが、それを使って現実の現象を理解しようなどと考えた人はいなかっただろう)。

 私は、その後、エール大学でジェームズ・トービンの講義を聞いて、初めて「資産選択」ということの意味を理解した。ただし、トービンは、ケインズが考えたままのモデルではなく、「実物資産と名目資産の組み合わせ」あるいは、「安全資産とリスクのある資産の組み合わせ」と問題を定式化していた。こうした修正は、日本でこそ必要なものだったのである。

 国債が資産であると実感できるようになったのは、70年代に個人が国債を保有できるようになってからのことだ。「流動性トラップ」という概念を理解できるようになったのも、90年代の金融緩和の中でのことだ。

 そしていま、「需要が大きく変動すれば経済活動は大きく変動する」という基本的なコンセプトが持つ現実的重要性がわかった。マクロ経済学は、(少なくとも戦後の世界に関する限り)いま初めて現実世界とのかかわりを持ったと思う。

経済学的な考え方とは無縁
と思われたマクロ経済学

 私が「マクロ経済学はくだらない」と考えていた理由は、現実とのかかわり(の欠如)だけではない。もう1つの理由は、「マクロ経済学は“経済学的な見方”とはあまり関係がない」と思っていたからだ。とくにincome-expenditure modelの場合には、「価格」という概念が登場しない。しかし、経済学的な見方の基本にあるのは、「価格」なのである。それがないと、モデルはきわめてメカニカルなものになってしまう。

 価格の機能を体系化したのが、「ミクロ経済学」とか「価格理論」と言われるものだ。「経済学的な洞察」のほとんどは、ここから生じる。たとえば、相対的コストを基準とした分業が望ましいとする「比較優位の原則」。また、「価格が調整すれば、均衡に戻る力が自然に働く」という考えなど(たとえば、原油価格や農産物価格の高騰の問題をどう見るかは、こうした考えのほぼ直接的な応用である)。エコノミストの存在理由は、ひとえにこうした考えができるかどうかにある。

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