パレスサイドビルに泊まり込みで電話掛け

後藤健夫(ごとう・たけお)
教育ジャーナリスト&アクティビスト。1961年愛知生まれ。南山大学在学中から河合塾に。大学卒業後に就職して以来、東京で勤務。その後、独立。早稲田大学や東京工科大学での入試関連業務に従事する一方で、経済産業省や自治体のプロジェクトなどにも参画。

――東大合格者特集は、どのようにして情報を得ていたのですか。

後藤 当時はまだ、新聞に合格者の名前が載るような時代で、個人情報への規制はありませんでした。サン毎と大学通信と河合塾が一緒になって、それぞれが高校に電話をして名簿を集めていました。

中根 まず全国の進学校約2000校に一斉に電話を掛けまくります。最初の関門が、東大に合格していると思われる生徒の情報をくれますか、でした。

後藤 労働組合の強い地域では、「受験戦争をあおるからやらない」と情報提供を拒む学校もありました。私立校でも、そもそもそんなことに関心のない学校は出してくれませんでしたね。

中根 次の関門が、高3生の学籍名簿をもらうことでした。すべて廃棄処分しましたが、生徒の住所を調べたりもしました。こうして得た情報を、東大から発表される合格者名に会社のホストコンピューターを使ってマッチングさせていきました。

後藤 河合塾からは浪人生の情報が行く。高校からは現役の在校生の情報がメインでした。卒業生の情報は持っていても、合格者名を出したい学校しか出さなかった。積極的に出す学校としては、桐蔭学園がそうでしたね。

中根 あの頃、破竹の勢いで東大合格者を増やしていた桐蔭学園(1992年に最大の114人を記録)の理事長の鵜川昇さんは、常に協力的でしたので、毎年秋口と春先にはご挨拶に行っていました。

後藤 桐蔭学園と県立浦和高校は当時、東京工業大と一橋大の合格者数で競っていました。なので、桐蔭学園の合格者数をきちんと押さえておかないと、トップが抜けてみっともないことになってしまいましたから。

――こうしたデータが自動的に集まるというわけではなかったのですね。

中根 違います、違います(笑)。一生懸命に集めるわけです。3月に入ると、毎日新聞の本社がある竹橋のパレスサイドビルの大会議室に貸布団を並べて、学生バイトも含め、一番多いときは100人ほどが泊まり込みになりました。

 合格者本人かちょっと分からない人がいると、学校や自宅に電話を掛けてつぶしていく。電話番号が分からない人は電話帳で調べました。4月下旬までの間、朝8時から夜9時まで電話を掛けまくるわけです。安田さんも当初は泊まり込みでデータを集めていましたが、私が編集部に入った頃から、後を後輩の井沢秀さんに託して、たまに顔を見せるようになっていたわけです。

――当時の売れ行きというのはいかがでしたか。
 
後藤 毎年9月から翌年4月にかけて、サン毎では切れ目なく大学特集が続きましたね。

中根 合格発表のある2月末から4月の末くらい、中でも東大合格者特集の号は通常号の5割増しから2倍で、多いときは発行部数が30万部を超え、即売での売り上げが8割、9割が当たり前という状況でした。

 企業の人事も読んでいて、地方の有力企業では、地元の名門高校から合格した生徒に、大学1年の段階からつばを付けておこうとする。なので、この情報は重宝されていたようです。

後藤 合格者の家庭では、一家に3冊、5冊などということもありましたね。まだ家庭ではコピーを取れる環境がなかったですから、親戚に1冊丸ごと渡すのです。大学通信は広告営業もしていましたね。

中根 断るくらい大量に広告が入ったので、どのように誌面に納めるのか苦労しました。見開きの両側に門構えでタテ広告を入れたり、新入生の口座獲得のための銀行の広告とか、広告だけの折をセンターに差し込んだり貼り付けたりもしました。