これからの“良い学校”の条件とは何か

 学習指導要領が改定されて、「探究」に注目が集まる中、歴史科目が暗記した知識しか問えないというのであれば、積極的にそれを受験科目から外して、英語や国語といった言語スキルや課題解決と合わせた総合問題として課す大学が増えていくだろう。現に早稲田大や青山学院大などでこの兆候が出ている。

 とても残念なことだが、「覚えることが学ぶことだ」という間違った認識が大学生の中でも広がっている。それは、小学校の「九九の暗誦」に端を発しているように思える。掛け算の意味を理解していたら、暗誦は要らない。暗算や筆算で掛け算をできるようになっていれば、おのずと九九を暗誦できるレベルになっている。意味も分からず暗誦させたところで、「算数嫌い」を生むだけではないだろうか。

 そして、こうした暗記ができない=勉強ができないと思い込んでしまう子どもを大量に生んでいるのではないだろうか。

 先日もあるところで、中学を卒業しても分数の「通分」を理解していない何人もの学生を高等教育機関が引き受けているという嘆きを聞いた。小学校で「通分」を理解できなくても中学校で理解をするチャンスはあるだろう。そもそも「通分」を理解できずに中学の数学を理解できるとは思い難い。

 高校で「総合的な探究の時間」や教科「情報」で調査データを扱うときに、「通分」の概念はアナロジーとして“比較”するために必要なものだ。「覚えることが勉強だ」と勘違いしている学生が大学にたくさんいるとも聞く。大学に来て初めて「自ら考えること」の重要性を知るのである。

 入試問題は、どのような学習をしてきてほしいかを選抜する側が問うものだ。暗記に頼った知識問題をたくさん出題するような学校や大学は、受験生をそのレベルの学習で良いのだと考えているのだろう。明らかなミスリードである。その象徴は大学入試における世界史や日本史なのだ。覚えることはどこまで行ってもコンピューターには勝てない。「考えないで覚えろ」とは「文句を言わずに働け」に通じる。

 教育はいまだにSociety3.0(工業社会)だといわれる。だが、実際の工場では人が働かず、いまやロボットが働く時代である。一律一斉授業や正解主義、予定調和に象徴される「工場モデル」から教育は早く脱しなくてはならない。手順書を「覚える」のではなく、方法を「考える」ことが求められる社会である。だからこそ、自分の好奇心や興味関心、課題意識を重視して、それらを自ら考えて深掘りして学ぶ「探究」が注目されるのだ。

 つまり、「探究」を重視して学ぶ中高や大学をこれから“良い高校”“良い大学”として進学先に据えるべきなのだろう。有名私立中高一貫進学校の中でも、豊島岡女子学園や海城などは「探究」に力を入れている。9月に行われた豊島岡女子の「探究」の成果発表会では、「歴史教育による歴史問題の解決は可能なのか」「シロツメクサの葉の開閉運動の役割に規則はあるのか」「ペットボトルを加水分解してみた! 」などなど興味深いテーマが並んでいた。十分に時間をかけた探究の成果がうかがわれる発表で、圧巻だった。

 ここに、“良い大学”や“良い中高”選びのヒントが隠されている。

>>次回に続く