頂点から谷間に転げ落ちた都立高校
図1には、都立高校の全盛期である1960年の東京大合格者数ランキングを示した。ベスト5はすべて都立高校で、上位20校の半分は都立高校が占めている。東京男子御三家や東京教育大学(現・筑波大学)附属駒場、灘といった現在も上位に入る私立・国立の男子校が、この時すでにランクインしていることも興味深い。団塊の世代に至るまでの大学入試過熱化への対応として、67年に学校群制度が東京で導入されたことにより、都立進学校の人気は地に落ちた。
後述するように、都立高校改革で見直しが図られていくものの、私立中高一貫校に奪われた地位を奪い返すことは至難の業で、2022年の同様のランキングは日比谷だけがランクインしているような状況にある。
22年4月現在、東京都内には五つの都立と一つの区立の中等教育学校、186の都立高校(うち5校は中学校を付設)があり、約9500人の教員と約13万人の生徒がそこにいる。都内の公立中学卒業生の高校進学率は97.6%に達している。
86年度に約15万7000人でピークを迎えた公立中卒業生の数は、05年度には約7万3000人と半減している。団塊ジュニア層などを受け入れるため都立高校が新設されていったものの、将来的な生徒数の減少を見越して「都立高校改革推進計画」(07年)などで示されたように、都立高校の統廃合や新しいタイプの学校の設置が進められてきた。
学区が撤廃され、学校選択幅が多様化されたその背景には何があったのか。旧学区ごとに都立高校がどのような状況にあるのかを連載したことがある(旧1学区、旧2学区、旧3・4学区、旧5・6学区、旧7~10学区)。60年の東大合格者数ランキング、そして図2・図3で示した都立高校「国公立100大学合格力」ランキングなども併せ見ることで、都立進学校の将来について考えてみたい。
戦前においては、ナンバースクールといわれた旧制府立中学校が大学進学では圧倒的な存在だった。その後身である日比谷(旧制一中)、立川(二中)、両国(三中)、戸山(四中)、小石川(五中)などは、新制高校になってからも、名門進学校としての地位を保ってきた。図1「1960年の東大合格者数ランキング」をご覧いただくと、かつての都立高校の進学力の高さを実感できるだろう。
18歳人口がピークを過ぎた50年代生まれのポスト団塊の世代は、67年から採用された学校群により、第一学区の日比谷は九段(旧第一市立中)、三田(旧府立第六高等女学校)と同じ第11群となり、どの学校に進むかはくじ引きの運次第となってしまった。その結果、学力上位層は国立大の付属校や私立難関進学校といった中高一貫校に進むようになった。日比谷の東大合格者数は、93年に1人となるほど凋落していった。
学校群以前の名門都立高校には、参考書の著者として、全国的に名をはせる名物教員も多数いた。日比谷の英語科教員だった森一郎による超ベストセラー『試験にでる英単語』は、くしくも67年に世に出ている。学校群の導入と並行して、都立高校教員のアルバイトは禁ぜられていく。
当時の教育長は「富士山ではなく八ヶ岳を目指す」とは言ったものの、結果として名前も判然としないような山並みに都立高校はなってしまった。同じ頃、予備校の講師というアルバイトをやはり禁じられた都立高校の教員も、学校を辞めて専任講師になるなど、岐路に立たされていく。