こうしたあれこれから、「黒田さんは、よくこのタイミングで私の履歴書を書くことにしたものだ」、加えて「日経は、よくこのタイミングで黒田さんの履歴書を掲載することにしたものだ」という2点について、多くの人が少々驚きつつ「黒田履歴書」に注目している。

 本稿執筆時点で、13回のコラムが掲載されていて、ほぼ折り返し地点だ。

「私の履歴書」の書き手選び
日経の方針変更は良しとしよう

 まず、「私の履歴書」に関する日経の方針変更だが、これは歓迎すべきことではないだろうか。

 新聞のコラムなのだから、この人の過去についてぜひ読んでみたいと思う読者の期待に応えるのは断然いいことだと評価したい。コラムの筆者の評判がその後にどうなるか、などということは本来些末な問題だ。

「私の履歴書」への登場は、功成り名を遂げたと自認する多くの人々にとって、憧れに近い目標の一つだ。「なぜ、日経は俺に声を掛けてこないのだ」と心の中で叫んでいる有名人または元有名人が多数待っていることは想像に難くない。また、コラムの内容が後から単行本化されることもある。日経は、このブランド価値に関していささか自意識過剰であったのではないか。

 この意識は、日経は新聞社であって、伝記出版社ではないのだから、忖度のしすぎだろう。いくら「日を経た、新聞」だからといって、筆者が古びてしまうまで待つ必要はない。その後の評判の変化についてまで日経が責任を負う必要はない。その時のコラムの内容に読むべき価値があって、その時点で確認できている事実に問題がなければ、堂々と掲載するといい。

 黒田前総裁の過去の振り返りは、読者にとって大いに関心の高いテーマだ。本人が出るというなら、ぜひ書かせてみるといい。それで議論が起こるなら、さらにいいことだ。新聞社の構えとしては、それでいい。

 では、黒田氏個人としてはどうなのだろうか?