スウェーデンでは「高齢者が重症化した場合にはICU治療を受けることができない」
とはいえ、国家権力によって監視され、自由を奪われることを容認できるひとは多くないでしょう。だとしたら、過度な監視を拒否し自由を守ったままウイルスと共存する方法を見つけねばなりません。
そのときに大きな示唆を与えてくれるのが、オランダとスウェーデンの取り組みです。
「医師から「感染しても病院で治療できない」 オランダ、高齢者に非情通告」という朝日新聞の記事(4月18日)によると、中部アルメールに住む82歳の男性はかかりつけ医から電話で「もし新型コロナに感染しても、あなたは病院で治療を受けられません」と告げられたそうです。
記事によると、感染拡大を受け、アムステルダムの医療専門機関「緩和ケア専門知識センター」が3月下旬、「余命が1年未満だったり、慢性的に体が弱かったりする患者を集中治療室に運ばない」とする基準をかかりつけ医らに通知し、その内容を患者にも伝えるよう要求しました。「集中治療室医組合が3月に感染拡大時の医療崩壊を避けるため、救命対象基準を「80歳」とする指針を作り、後に「70歳」に引き下げていたことも判明した」ともされます。
「高齢者切り捨て」との反発が起きるのは当然ですが、興味深いのは、安楽死を望むひとたちでつくる「オランダ・自由意思による死協会」に「感染時、自分の意思で希望通りに死ぬにはどうしたらよいか」との相談が急増していることです。オランダでは一定の基準を満たした安楽死(死の権利)が認められていますが、同協会の85歳の男性会員は地元のラジオ番組で「自分の年齢を考えた時、集中治療室に入ったとしても生き残れるとは考えられない。だから、最後まで自分の意思で人生を決められるように安楽死を選びたい」「自分で選んだ死に方ができない方が、コロナに感染することよりも怖い」と訴えたといいます。
一方のスウェーデンはヨーロッパでは異例の「部分的ロックダウン」にとどめ、保育園・小学校・中学校は平常どおり授業を行なう(高校・大学・成人学校は閉鎖してオンライン授業に切り替え)など市民生活への影響を最小限にとどめています。店やレストランも営業を続けており、テイクアウトが増えているものの、他の人との距離が近すぎないかぎりレストラン内で食事することもできるとされます。
スウェーデン・カロリンスカ大学病院で働く日本人医師・宮川絢子さんにインタビューしたWEB記事「スウェーデン新型コロナ「ソフト対策」の実態。現地の日本人医師はこう例証する」(Forbes Japan5月7日)によると、たしかに死者は増えているもののその多くは高齢者施設で起きた集団感染で、医療現場はひっ迫していても「医療崩壊」のような事態には至っていないといいます。
その理由は、スウェーデンが従来からICU(集中治療室)の適応を厳しく制限しており、「高齢者が重症化した場合にはICU治療を受けることができない」からだといいます。高齢者の死亡率が高いのは治療を受けていないからで、だからこそ医療崩壊が起きていないのです。
さらに、「若年者でも、予後が悪いと分かっていれば、通常からICU入室を許されないことは往々にしてある」とも述べられています。スウェーデンでは最低限の負担(外来診療では1年間の支払い最高額は1150クローネ〈約1万3000円〉、外来処方薬は2350クローネ〈約2万7000円〉、入院では日額100クローネ〈約1100円〉)で誰もが平等に治療を受けることができますが、だからこそ限られた医療資源を有効に分配することが当然とされているのです。
こうしたスウェーデンの医療制度がよくわかる体験を宮川さん自身がしているので、それを引用してみましょう。
「ちょうどこの状況の中で、77歳の義父が脳出血を発症したのですが、発症以前の健康状態を知らない脳外科医が、初診医からの電話一本による説明で、「余病があるため健康状態は80歳以上」と判断し、手術の適応なしと診断されてしまいました。健康状態が80歳以上という判断は間違っていると抗議しましたが、義父は治療を受けることもなく、そのままこの世を去りました」
「リベラルな社会」を実現すれば生体GPSを埋め込んでも問題はない
オランダやスウェーデンの事例からわかるのは、感染症が社会問題になるのは医療崩壊を起こすからで、医療システムが機能しているのなら、極端な話、市中の感染者数はどうでもいいということです。医療崩壊を防ぐもっとも確実な方法は、入院患者数を病院の対応能力に合わせて調整すること、すなわち「社会的トリアージ」です。
こうしてオランダでは、80歳以上だった救命対象が70歳まで引き下げられました。トリアージという「生命の選別」を社会が受け入れれば、「自由な市民生活」を放棄する必要はないのです。とはいえ、感染しても治療を受けられない以上、希望者には「自らの人生を望みどおりに終わらせる」安楽死の選択肢が提供されるべきでしょう。
これをアンダー・コロナでの社会制度の両極としましょう。ひとつは「生命」を重視する「超監視社会」で、もうひとつは「自由」を守るために社会的トリアージを受け入れる「リバタリアン(自由原理主義)社会」です。
これが私たちに突きつけられている「生命」と「自由」のトレードオフですが、さらに考えてみると、ここにも両立可能性がないわけではありません。
「監視社会」というと誰もがジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984』を想像するでしょう。そこではビッグ・ブラザーという独裁者がテレスクリーンなどのテクノロジーを使って市民を完全な監視下におき、自由に考えたり空想したりすることすら「思想犯罪」とされてしまいます。
しかし感染症対策として手の甲に埋め込まれるICチップは、思想を取り締まることとはなんの関係もありません。感染検査で陽性になるか、陽性者と2週間以内に接触していなければなんの意味もないのですから、現場で違法行為が起きないかぎり再生されることのない監視カメラに似ています。
監視カメラが街じゅうに据えつけられたときも「自由」をめぐる議論が起こりましたが、いまでは未解決の事件が起きるたびに「なぜ監視カメラを設置していないんだ」との批判が殺到するようになりました。ドライブレコーダーによる記録は、あおり運転のような理不尽な行為から身を守ったり、事故のときに過失を押しつけられないために必須だと考えられています。だとしたらひとびとは、手の甲のICチップにも同じように慣れてしまうのではないでしょうか。
「そんなわけはない」という声が聞こえてきそうですが、生体GPSによってどのような不利益があるのか考えみましょう。
すぐに思いつくのは、家族や会社などに知られたくない場所を訪れていたことを暴かれる「プライバシー侵害」でしょう。夫や妻に内緒で愛人と逢瀬を重ねていたことがバレたら、家庭が崩壊してしまうかもしれません。
しかし不倫は、「犯罪」とはいえないまでも、道徳的にほめられた行為ではありません。それが暴露されたとしても、ある意味、自業自得ということもできます。
その一方でいったん感染が拡大してしまえば、現在まさに起きているように、仕事の基盤が根こそぎなくなってしまう困難に直面するひとが膨大に生まれます。生計の道を断たれ路頭に迷ったひとたちは、「不倫の自由を守るために生体GPSに反対する」ことをどのように考えるでしょうか。
しかしそれでも、「社会的に差別されているひとたちに不利益を及ぼす」との強力な反論があるでしょう。その象徴的なケースが韓国で起きたナイトクラブの集団感染です。
報道によると感染源となったのは同性愛者が集まるクラブ(ゲイバー)で、性的志向を暴かれることを恐れて個人情報を秘匿したり、防疫対策本部からの呼びかけに応えなかったりして検査の実施が困難になったとされます。
生体GPSがあればこの日にクラブにいた全員を即座に特定できますが、それは同時に、本人が隠したいと思っている性的志向を周囲に知らせることにもなってしまいます。「これでは差別を助長するだけだ」という批判にはたしかに説得力があります。
しかしこれも考えてみると、問題なのは生体GPSではなく、同性愛者を差別する社会であることがわかります。仮に性的志向への差別や偏見がまったくない社会だったとしたら、ゲイバーと異性愛者の若い男女が集まるクラブの区別はなくなり、そこにいたことがわかったとしてもなんの不利益にもならなくなるはずです。
このことは、きわめて興味深い仮説を提起します。感染症の抑制と経済活動を両立させる生体GPSを導入するためには、その条件として、「誰とどこにいたか」でいっさい差別されることにない「リベラルな社会」を実現しなければならないのです。映画『サークル』で描かれたように、「完全な透明性」はユートピアへの道なのかもしれないのです。




