「いじめ」はクラスの平穏に対するルール違反

 さて、ここでもう一度、事例に戻って考えてみましょう。私の意見としては、Yさんの振る舞いは“中立ではない”と考えます。
 
 別の例で考えてみましょう。例えば、AチームとBチームのサッカーの試合で、Aチームの選手が突然ボールを手に持って走り始めました。にもかかわらず、審判が「私は“中立”だから何もしない」と言ったらどうでしょう。それは、Aチームのルール違反を見過ごすことに他なりません。つまり、Aチームに味方をしているに等しいのです。

 クラス内の「いじめ」も同じではないでしょうか。クラスの平穏を阻害する「いじめ」という“ルール違反”を、「何もしない」で済ませることは、ルール違反をしている人たちの味方をするのと同じです。

「誰の味方もしない」と言うためには、ルール違反があった際には見て見ぬふりせず、「それはルール違反だ」と指摘したり、それを許容しない姿勢を見せたりすることも必要ではないでしょうか。

 もちろん、クラスメートはサッカーの審判とは違います。他人同士のトラブルをジャッジする義務はありません。しかし、学校生活において「安全安心なクラスを運営していく」ことに関しては、クラス全員が“当事者”であることに間違いはありません。“観客”や”完全な第三者”ではないのですから、ルール違反に全くの無関心でいてよい立場ではないはずです。

 このような観点から、私はYさんの振る舞いを”中立ではない”と考えるわけですが、これとは逆に、“中立である”と結論付けた上で、「中立だからといって、Yさんが取った行動が“正しい”とは限らない」と考えることなどもできます。

 いろいろな視点で見てみると、「Yさんの振る舞いは“中立”か」という問いは、必ずしも結論そのものが重要なわけではありません。大切なのは、人の言い分に流されず、自分の良心に従うことです。そのためにも、子どもたちには、人の組み立てた“理屈”への違和感を言葉にするといった練習を、日々重ねていってほしいと考えています。

 授業でも以上のような考えを述べた上で、「“中立”という言葉に惑わされず、自分なりの『小さなNO』を出すようにしてほしい」と伝えています。

>>第4回に続く