リー・アイアコッカ
[クライスラー社CEO]アメリカ自動車産業の救世主

【第24回】2008年3月13日公開(2011年11月16日更新)

 自動車ローンがちょうど、新しいクルマの購入方法として定着し始めたばかりのころで、この新しい支払いプランによって、資金に余裕のない購入者でもクルマを簡単に買えるようになった。具体的には、20%という低額の頭金をまず支払い、次の3ヵ月間は月々56ドル支払うという仕組みだった。このアイデアは当たり、アメリカ全土に広げられた。

 この功績によってアイアコッカはフォードの序列で一夜にしてスターになった。またたく間に昇進を重ね、1960年にはフォード部門の責任者となった。36歳にして、世界第2位の自動車会社の中でも最大の部門のゼネラル・マネジャーになったわけだ。

 まもなく、アイアコッカはその権限を大胆に行使する。3500万ドルの損失が避けられないにもかかわらず、予定されていたニューモデル、カーディナルの導入中止を決断したのだ。その代わりになるモデルが、1964年3月9日に組立ラインから誕生する。初代フォード・マスタングだ。このニューモデルはゼロから起こした完全な新設計で、価格は一般消費者の手の届く水準だった。メディアはその発売をこぞって取り上げ、タイム誌とニューズウィーク誌の表紙を同時に飾るほどだった。マスタングはまさに市場が待ち望んでいたクルマだった。導入初年度、販売新記録となる41万8812台を売り、11億ドルの利益を稼ぎ出した。

転機と決断

 この功績でアイアコッカは、1965年1月、フォードの乗用車・トラック部門の副社長に昇格、1970年にはフォード帝国の社長に就任した。

 社長にはなったものの、アイアコッカはフォードで最も権力のある人物ではなかった。権力は、創立者の曾孫、ヘンリー・フォード2世のものだった。ヘンリー・フォードは恐怖による支配を行い、同社のエグゼクティブたちは考えられないような理由で追い出されるかもしれないと恐れていた。数年間、アイアコッカは危ない橋を何とか渡っていた。片方ではフォードの権威に逆らわないようなふりをし、もう片方では解雇されないように、それなりの実績を上げていたからだ。社長の地位にできる限り長くとどまっていられたのは、アイアコッカ本人の実力のたまものだった。

 フォードは病気がち、しかも結婚生活はうまくいかず、次第に猜疑心が強くなり、その意思決定も次第におかしくなっていた。フォードの要求により、アイアコッカの行動に対する社内調査まで行われていた。

 伝えられるところによればその費用は150万ドル以上、結局、アイアコッカに都合の悪い材料は一切出てこなかった。

 1977年になると、フォードは経営コンサルティング会社のマッキンゼーに連絡を取り、フォード社の経営管理構造を再構築するよう依頼した。マッキンゼーは、会長兼CEO、副会長、そして社長がトップに立つ新しい組織構造を提案した。アイアコッカはこれによってナンバースリーになった。フォードはアイアコッカをさらにいじめる目的で、このあからさまな降格を公然と宣伝するように強く指示した。そして1978年、フォードはついにアイアコッカを解雇する。その理由について、フォードはこう言った。「たまには誰かが気に入らなくなることもあるだろう」

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