アンドリュー・カーネギー(1835~1919)は、その功績の大部分が19世紀になされているにかかわらず、20世紀の経営者としても評価されているという事実は、19世紀から20世紀への転換の過程で、アメリカに起こった商業革命に対するカーネギーの影響力がいかに大きかったかを証明している。
カーネギーは、鉄鋼生産や鉄道建設を背景にアメリカの工業化を推し進めた産業人の先駆けであり、同時に、最も成功した人物である。そのことに議論の余地はない。
生まれはスコットランド、手織り職人の息子だった。成功に彩られた長い人生が終わるころには、自分の製鉄会社をアメリカ最大にまで育て上げ、個人的にも膨大な資産を蓄積していた。
成功への階段
1835年11月25日、スコットランドのダンファームリンで生まれる。1848年には経済不況がきっかけとなり、カーネギーの父は家族を連れてアメリカに移住。そしてピッツバーグ近郊、アレゲーニーのスラブタウンにある、スコットランド人が多く住んでいる居住地に居を定めた。12歳のアンドリューは、近くの綿紡績工場での仕事を見つけた。
この綿紡績工場を辞めると、メッセンジャーボーイとしてピッツバーグ電報局に就職する。そのころ、ペンシルベニア鉄道で西部地区の支配人をしていたトーマス・A・スコットがカーネギーの能力に目をつけ、月給50ドルで秘書として採用した。当時の若者にとっては高額の給料だ。
カーネギーに、創業まもない企業への投資は収益をもたらす可能性があると教えて、資産家への道に踏み出させたのは、このスコットだった。スコットの指導にしたがって、カーネギーは母親から借りた資金をアダムスエキスプレス社の株式の購入にあてた。母は自宅を抵当に入れてこの資金をつくっている。そのあとにもカーネギーは資金を借り入れ、新発明の鉄道用寝台車両の商業利用をめざすベンチャー企業に投資した。
南北戦争時代のワシントンでは、カーネギーはスコットの部下だった。やがて北軍が勝利をおさめると、カーネギーは戦前のスコットの地位、つまりペンシルベニア鉄道の西部地区担当の支配人におさまった。
ところが、この仕事では自らの起業家としての本能が満たされなかったため、すぐに鉄道を辞めて鉄橋建設会社、キーストンブリッジ社を設立した。それと同時に将来性の見込めるベンチャー企業数社にかかわり、成功をおさめている。
カーネギーがアメリカで懸命に仕事をしているとき、発明家でもあった事業家のヘンリー・ベッセマーは、イギリスで、世界中の産業を変えてしまうような製造法の開発に取り組んでいた。そのベッセマー製鋼法によって、鉄鉱石から鉄をつくり出す生産工程の工業化が実現した。カーネギーはしばしばイギリスに出張していたが、あるときたまたまこのベッセマー製鋼法を目の当たりにした。この製鋼法はまさに革命だった。