ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(1905~75)は裕福な家庭に生まれた。父親はオイルドリルを開発する企業ヒューズ・ツール社の創業者だった。同社設立の目的は、どんなに好きなことに溺れていても一生生活ができるような財産面でのセーフティネットを、息子ヒューズのために用意しておくことだった。
確かにヒューズは好きなことに溺れた。25歳になる前、ハリウッドに行きそこで何本か映画を撮って成功をおさめ、ドリルのビットをつくる新会社を興し、100本以上の映画を買い付け、そして飛行機の操縦法を身につけた。1975年に他界するまで、航空会社(TWA)の業績を好転させ、映画会社を経営し、ラスベガスの歓楽街にある賭博場を手に入れ、いくつかの飛行速度記録を破り、3度の飛行機事故でも命を落とさず、そして伝説的な隠遁者となった。一度の人生にハワード・ヒューズほどの“波瀾万丈”を詰め込んだ人物は、見当たらないだろう。
生い立ち
ハワード・ヒューズの人生には謎が多い。1905年の12月24日、テキサス州で生まれたことだけははっきりしているが、ヒューストンの街だったのか、油田地帯のつつましい町だったのかははっきりしない。
父親は裕福で、ハーバード大学の経営学の学位と、アイオワ州立大学の法律学の学位を持っていた。1909年、この父親はシャープ=ヒューズ・ツール社を設立、石油業界向けにドリル用のビットを製造した。そして斬新なオイルドリル用のビットを発明したことで、ヒューズ一家をあっという間に大資産家にした。
成功への階段
少年時代、ヒューズは機械工学に特に興味があり、自作のオートバイやラジオを組み立てたりした。また、小説家で劇作家であったおじのルパートに、よくゴールドウィンの撮影所に連れて行かれたことから、映画の魅力に取りつかれた。
20歳になる前に、ヒューズは両親を2人とも失った。父親の死の直後、ヒューズは親戚を説得してヒューズ・ツール社を売却した。そして1925年、裕福な家の娘エラ・ライスと結婚し、ハリウッドに住まいを移した。
ハリウッドで、ヒューズは熱狂的ともいえる活力や気迫を見せ始めた。その活力や気迫が、変化に富んだその人生の中で、一貫してヒューズを支え続けた。
1925年には、ヒューズはキャドロック・ドリルビット社を創立し、マルチカラー社の株を買収してその経営権を握り、ロサンゼルスに引っ越した。そして表向きには助手として、ノア・ディートリッヒを雇い入れた。ディートリッヒはその後、ヒューズ帝国のフィクサー(黒幕)となる。ヒューズはまた、100本以上の映画作品を買い入れ、自分自身の新規事業としては最後になる映画制作の役に立てようとした。
ヒューズの最初の映画『スウェル・ホーガン』は失敗作だった。3番目の映画『ツー・アラビアン・ナイト』は黒字となり、コメディ部門で1927年のアカデミー賞を受賞した。『暗黒街の顔役』もヒット、その次の『フロントページ』も当たった。しかし、『暗黒街の顔役』の制作は、反ユダヤ主義のヒューズに対する人々の敵対心で難航、ヒューズは大きな痛手を被り、一時的に映画制作から手を引いている。
その間、映画の世界に対する思いを、当時最高の美女とデートをすることで満たそうとした。デートの相手にはイデ・ルピーノ、キャサリン・ヘプバーン、ジンジャー・ロジャース、エバ・ガードナー、そしてラナ・ターナーの名前もあった。しかし、ヒューズはその興味を映画制作から航空業界に移していった。