毎日新聞本社のあるパレスサイドビル(千代田区)。ここで泊まり込みながら、大学特集号の編集作業が毎年重ねられた

大学入試解説の第一人者を失って

安田賢治(やすだ・けんじ)
1956年兵庫生まれ。灘中学校・高等学校から早稲田大学政経学部に入学。在学中、世界各地を放浪し、占い師の見習いも経験。卒業後、1983年大学通信に。同社常務取締役と情報調査・編集部ゼネラルマネージャーを兼ね、さまざまな媒体に大学情報を提供してきた。中学受験から大学入試まで語れる希有な人材だった。2022年3月13日逝去。

後藤 安田賢治さんがこの3月に亡くなりました。この対談を重ねてきた相方がいなくなり、いまはとても寂しい。

中根 このシーズン、毎年しょっちゅう情報交換をしてきた仲でしたので、安田さんがいない春は初めての経験です。今年の大学入学共通テストが行われる数日前に、「これから入院なんだ」と言われ、それから2カ月もせず逝ってしまいました。大学入試に関して、前提抜きで深い話ができる人を失ってしまいました。

後藤 時代が一つ終わった感じがしています。大学の小ネタを語り合いながら、それが帰納的にその年の入試の解説になる、そんな人でした。大学入試のあり方も大学のあり方も、これから大きく変わっていく。規模が小さくても、アライアンスを組んで生き残りを図るような大学のネットワークも出てくるでしょう。そういう時代の変わり目に亡くなってしまった。

――今日は安田さんの思い出に重ねながら、中根さんが長年携わっておられた「サンデー毎日」でのエピソードなども語り合えればと思います。

後藤 僕はアルバイトの延長で1984年に河合塾に就職しました。安田さんとはアルバイト時代からの付き合いです。就職してすぐに東京に来て、当時はお茶の水にあった大学通信に資料を取りに行っていました。僕の業務ではなかったけど、安田さんのことを知っているから行けと。

 10年くらいしてから河合塾の教育情報部に異動しました。毎年春、その年の大学入試に関する予備校座談会をお茶の水にある山の上ホテルで行っていました。当時ホスト役だった研数学館の片山正人さんと、「やあやあ、忙しいところ悪いねえ」とニコニコ笑いながら安田さんが待ち構えていた。笑顔で迎えられると、皆も気分が良くなって、話も盛り上がるわけです。

中根 当時は予備校同士が集まるような機会はほとんどなくて、「サンデー毎日」で座談会をやってくれるのはありがたいと言われましたね。

 私は支局勤務を終えて、94年の春に「サンデー毎日」編集部に入りました。その年の秋から翌年のゴールデンウイーク明けまで、専従の記者として、毎週記事を書いていましたね。大学通信はデータ収集を行っていました。

 大学合格特集の名物デスクだった松沢一憲さんが、「やっさん、やっさん」としょっちゅう電話を掛けていて、「今度新しいやつが来たから」ということで、安田さんと初めてお会いしましたが、パーカを着てえらいラフなスタイルでお見えになったのでびっくりしました。

後藤 この松沢さんが、「東大合格者数高校別ランキング」の仕組みを創った人でした。

中根 名物編集長だった牧太郎さんが、「あれをちゃんとシステム化して、電算処理しよう」と。それまでは手作業でやっていて、ものすごく効率が悪かった。松沢さんは元々システム部系の人で、記者職ではなかったのですが、その仕組みを考えた人です。ホストコンピューターで処理したデータを、凸版印刷に持ち込んでいました。

後藤 OA(オフィスオートメーション)化が進められていた時代でしたね。Windows95以前の話ですから。

中根 記者は東芝のRupo(ルポ)を使っていたのが、「サンデー毎日」編集部では富士通のOASYS(オアシス)でした。使い方が違うので慣れなくて苦労しました。

後藤 それって、河合塾に合わせたのかも(笑)。河合塾がOASYSを導入した84年に、ちゃんと親指シフトで打てたのが、東京の河合塾では僕しかいなかった(笑)。