独裁体制を倒すには
「人命」という代償が伴う

 習氏の独裁体制が中国の国民にもたらす未来は、決して明るいとは思えない。すでに共産党大会では、国内総生産など経済統計の発表が突然延期される事態が起こった。習氏に「忖度」して、経済の不振を印象付ける指標を隠したとみられている。

 中国のような権威主義体制は、指導者は間違いを犯すことがないという「無謬(むびゅう)性」を前提としている。うまくいかなくなったら、うそを重ねて権威を守ることになる。

 自由民主主義体制では当たり前に行われる、国民の声を聴いて政策を修正することは、権威主義体制では絶対に認められない。国民の意見に耳を傾けるという行為自体が、権威を揺るがしかねないためだ。

 あえて平易な言い方をするが、個人でも国家でも「うそがよくない」のは当然のことだ。権威を守るためにうそを重ねていけば、最終的につじつまが合わなくなる。うそが国民に明らかになるときに、国家が破滅的な状況に陥るのは歴史が証明している(第220回)。

 例えば、第2次世界大戦時の大日本帝国は、日本軍が連戦連勝を続けているという「大本営発表」を繰り返した。国民が実際の戦況に気付いたときには、すでに敗北が決定的となっていた。

 一方、英公共放送BBCは、ウィンストン・チャーチル英首相(当時)の圧力に屈せず、「真実を放送する方が国益にかなう」として、初期の対独戦の敗北を正確に伝え続けた。報道が国民に与えた影響に鑑みると、どちらが正しかったかは明らかである(第108回)。

 中国に話を戻すと、何より問題なのは、万が一「独裁体制を築いた習氏を、国家主席から降ろして交代させたい」という機運が高まったとしても、その実現に大変なコストとエネルギーを必要とすることである。

 国家主席を「健全」に交代させるプロセスが機能していない以上、実現にはクーデターや暗殺、場合によっては革命が必要になる。多かれ少なかれ人命が失われる可能性が高いのだ。

 優秀な指導者がいるときには、どんな政治体制でも、政治は機能し社会は安定するものだ。問題は、間違いを犯しかねない指導者が現れたときである。そのときの対応に、自由民主主義と権威主義の差が現れてくる。

 不適格な指導者を選挙によって取り換えられる自由民主主義体制と、クーデター・暗殺・革命を必要とする権威主義体制の、どちらが仕組みとして優位にあるかは、言うまでもないだろう。