橘玲の日々刻々 2020年7月16日

アメリカでリベラルと「レフト」が衝突する「人種主義Racism」。
「人種」概念の否定と遺伝的な「ヒト集団」が混乱を起こしている
【橘玲の日々刻々】

「人種は存在しないがヒト集団は存在する」

 トランプはSNSなどで、抗議デモを隠れ蓑に略奪を繰り返したり、奴隷制の歴史を正当化する(とされる)記念碑や彫像を破壊する過激な一派を「アンチファ(反ファシズム)」「ラディカル・レフト」と呼んで執拗に攻撃している。これによって、表現の自由を守るために過剰な「ポリコレ」を批判するリベラルも、レフトにとっては「トランプ支持者」の同類になってしまった。アメリカの言論状況は複雑骨折のような状況になっているのだ。

 そこでここでは、錯綜する議論を整理するために、「人種Race」について基本的なことを述べておきたい。近年、アカデミズムの世界で「人種」概念は大きく変容しているからだ。

 結論を先にいうと、いまでは遺伝学的な意味での「人種」は否定され、社会学などを除けば学術論文のなかでRaceやEthnicityが使われることはほぼなくなった。フランスの分子生物学者ベルトラン・ジョルダンの『人種は存在しない 人種問題と遺伝学』(中央公論新社)の書名がその変化を象徴している。

 人種を「社会的構築物」とする主流派の立場に反対するのが「白人至上主義」の「人種現実主義Race realism」で、そこでは大きく2つのことが主張されている。

 ひとつは、人間の本性として、白人は白人同士で、黒人は黒人同士で集住した方が安心できるという「現実」があること。これを「多元主義」の美名の下に国家権力が矯正=強制しようとしてもいたずらに混乱が広がるだけだとする(その意味でこの立場は「黒人を差別しているわけではない」とされる)。

 その主導者がジャレド・テイラーで、渡辺靖氏の近著『白人ナショナリズム アメリカを揺るがす「文化的反動」』(中公新書)に詳しいが、日本で宣教師の両親のあいだに生まれ、16歳まで香川県や兵庫県で過ごしたことで日本語を流暢に話し、イェール大学卒業後にパリ政治学院で修士号を取得した知識人で、日米間の翻訳・通訳業で成功を収めたのちに「人種現実主義者」になったとされる。

 もうひとつは、遺伝学的に、人種間には肌の色のような外見のちがいだけでなく、認知的・心理的な側面を含むさまざまな差異があるとする主張で、「科学的人種主義Scientific racism」と呼ばれる。こちらはイギリスの科学ジャーナリスト、アンジェラ・サイニーの『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(作品社)にアカデミズムの(そして著者自身の)混乱がよく描かれている。

 「科学の人種主義」としてサイニーが批判するのが行動遺伝学と遺伝人類学だが、いずれも現在は「Race」を使っていない。だったらなにが「人種主義」かというと、「Population」という新奇な用語が(主に遺伝人類学で)登場したからだ。――これには「人類集団」の訳もあるが、日本の遺伝人類学では「人類(ネアンデルタール人などを含むすべてのホモ属)」と「ヒト(現生人類/ホモ・サピエンス)」を区別しているので「ヒト集団」とする。

 ジョルダンは「人種は社会的構築物で科学的には否定された」との立場をとるリベラルだが、その著書『人種は存在しない』の内容は、「人種は存在しないがヒト集団は存在する」と要約できる。なぜなら遺伝人類学そのものが、ヒトを遺伝的にさまざまな「集団」にグループ分けし、その来歴や歴史を探る学問だからだ。

異なるヒト集団で遺伝子の分布に差があるのなら、それに基づいてグループ分けができる

 遺伝人類学については「古代DNA革命」を牽引するデイヴィッド・ライクの『交雑する人類―古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(NHK出版)を以前紹介した。

[参考記事]
●今、ホモ・サピエンスのアフリカ起源説など人類史の常識が次々と覆されている

 そこでここではより身近に、太田博樹氏による『遺伝人類学入門』(ちくま新書)から「下戸遺伝子(これは私の命名)」を例にあげよう。

 一卵性双生児を除けば、同じDNAをもつひとはこの世にいない。この分子レベルのバリエーションを「遺伝的多型」といい、それを知るのにもっともよく使われるのが一塩基多型(SNPs/スニップス)だ。

 日本では、まったくお酒を飲めないひとを「下戸」と呼ぶ。かつては「無理に飲ませればそのうち慣れる」といわれたが、これはきわめて危険な間違いで、アルコール(エタノール)から生じるアセトアルデヒドを遺伝的に酢酸に分解できないのが理由だ。酢酸は無害だが、アセトアルデヒドは強い毒性があり、血中に溜まると頭痛が起こり、顔が紅くなり、気分が悪くなる。

 アルコールを無害化するには肝臓ではたらくアルコール脱水酵素が必要で、ヒト12番染色体にあるALDH2という遺伝子がコードしている。ALDH2は13個のエキソン(DNAの遺伝子部分)で構成されており、そのうちの12番目の配列は野生型ではGAAとなっているが、このGがAに変わってAAAの変異型になることがある。

 「野生型」はかつては「正常型」と呼ばれたが、変異型=異常を連想させるとしてこの名称に変わった。遺伝子頻度の多い方(マジョリティ)が野生型とされるが、進化論的には主に、狩猟採集の旧石器時代に形成されたのが野生型、農耕・牧畜開始以降の環境の変化によって獲得されたのが変異型ということになる。

 野生型(GAA)から変異型(AAA)への変化は塩基1つのちがいだが、これによってアミノ酸がグルタミン酸からリシンに変化し、アルコール脱水酵素が機能しなくなる。染色体は2本あるから、GAA+GAA(野生型+野生型)、AAA+AAA(変異型+変異型)、GAA+AAA(野生型+変異型)の3つのパターンが考えられる。――このうち、同じ配列の組み合わせを「ホモ接合」、異なる配列の組み合わせを「ヘテロ接合」という。

 SNPsが両方とも変異型のホモ接合(AAA+AAA)だと、アルコール(エタノール)から生じるアセトアルデヒドを酢酸に分解することができずに下戸になる。GAA+AAAのヘテロ接合では脱水酵素がじゅうぶんに機能せずに酒に弱くなる。ちょっと飲むとすぐに顔に出るのはこのタイプだ。

 興味深いのは、このSNPsに顕著な地域差があることだ。日本ではGAA+GAA(酒に強い)が55%、GAA+AAA(酒に弱い)が40%、AAA+AAA(下戸)が5%程度だが、じつはAAAの変異は東アジアにしか存在しない。下戸遺伝子のSNPsを調べるだけでどの大陸出身かを判断できるのだ。

 こうしたわかりやすいSNPsは、ほかにいくつも見つかっている。乳糖不耐症は牛乳などに含まれる乳糖(ラクトース)の消化酵素ラクターゼを分解できないことで、消化不良や下痢などの症状が出る。だが下戸遺伝子とはちがって、病気(乳糖不耐症)の方が野生型で、人類が家畜を飼うようになったことで、その乳を栄養分として摂取できることが生存に有利になり、成長してもラクターゼを分解可能な変異型の遺伝子が広まった。このSNPsで、先祖が牧畜文化で暮らしていたかどうかがわかる(稲作の東アジアには牛乳を飲むとおなかをこわすひとが多い)。

 鎌形赤血球症は遺伝性の貧血病で、変異型の遺伝子を2つもっているホモ接合だと重篤な溶血性貧血症状が起き、黄疸、骨壊死、下腿潰瘍などで死に至ることもある。なぜこのような生存に不利な遺伝的変異が存在するのか不明だったが、やがてヘテロ接合(野生型+変異型)の場合、マラリア原虫に抵抗力があることがわかった。幼児期のマラリアはきわめて死亡率が高いが、変異型を1つもっていると生き延びることができる。こうしてアフリカやインドなど、マラリア原虫を媒介するハマダラカの生息する地域でこのSNIPsが広がったのだ。

 下戸遺伝子や乳糖不耐症、鎌形赤血球症の遺伝子はどのヒト集団にも存在するが、その分布には明らかな地域差がある。たとえば東アジアでは、下戸遺伝子と乳糖不耐症の割合が高く、鎌形赤血球症の割合は低い。これはヒト集団によって「遺伝子頻度(アレル頻度)」が異なるからで、遺伝子頻度は集団内で特定の遺伝的多型がどの程度見られるかの指標になる。

 異なるヒト集団で遺伝子の分布(ハプロタイプ)に差があるのなら、それに基づいてグループ分けができるし、グループ間の距離も計測できる。これが遺伝人類学の基本的な考え方だ。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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