「快適」が増えた世界で失われた「心地よい摩擦」
私たちは今、かつてないほど便利な時代を生きている。AIは瞬時に答えを導き出し、あらゆるサービスがシームレスにつながっていき、「面倒」は次々と取り除かれていく。
一方、便利になったはずなのに疲れている。刺激は無限に供給されるのに、心から没頭できたという手応えが残らない──というモヤモヤを抱える人も増えている。そんな中、「あえて難しいことをやる」価値に注目し、「鍛錬の娯楽化」という言葉で捉えようとしているのがヤマハ発動機だ。
なぜ「鍛錬」に着目するのか。
「これまでのビジネスは、いかに合理性や効率性を追求するかに主眼がありました。しかし今後は、論理的に正解を導き出す力はAIの方が圧倒的に強くなっていく。そこに人間のモチベーションを投じ続けていくのは難しいと思っています」
ヤマハ発動機上席執行役員の木下拓也氏はそう語る。同社が見据えるのは、「便利さ」の先にある体験価値だ。ユーザー体験(UX)のフリクションレス化が進む一方で、人が深く熱中するのは、むしろ身体全体で世界と格闘するフリクションだらけの体験ではないか。
ヤマハ発動機取締役 上席執行役員
木下拓也 氏
技術管掌
管掌領域:IT、技術・研究・デザイン、モビリティ開発
例えば、憧れていた曲を、楽器でたどたどしくも自分で弾くこと。バランスを探りながらバイクに乗り、少しずつ上達していくこと。試行錯誤しながら習熟する体験には、手応えのある喜びが宿る。
木下氏は、そうした「身体を通じた習熟」を自ら実践する一人だ。50歳を超えてからマウンテンバイクに乗り始め、今も週2回は早朝から山へ向かうという。
「身体的にはめちゃくちゃしんどいですが、その苦しさすら楽しい。気温、気候、路面などの環境と自分が対話しながら何かを乗り越えて身体的に“分かる”ことは、頭で分かることとは別物です。やればやるほど、もっと深く分かりたくなっていく」
ある閾値を超えたとき、挑戦の苦しみは快楽になる。「遊ぶ」とは、受動的に消費することではなく、能動的に世界へ関わることともいえる。
「社長(設楽元文代表取締役社長・CEO)も、よく『もっと遊べ』と言うんです。社員が本気で遊ばないとヤマハ発動機が提供する価値の本質が理解できないし、楽しみながら作られたものしかユーザーには届かない、と」
人間は「難しさ」に熱中する生き物である
「鍛錬の娯楽化」とは、苦労の美化や非効率の称賛ではない。すぐにはうまくいかない体験にこそ、人は「できるようになっていく喜び」を見いだす。そんな“人間の本質”に着目しているのだ。
簡単過ぎると退屈する。難し過ぎると挫折する。両者の間に人間が夢中になれる領域があり、その領域は習熟によって広がっていく。つまり「克服そのものを楽しめる状態」が設計できたときに鍛錬は娯楽になるのである。
この思想の源流には、ヤマハ発動機の創業者・川上源一が繰り返し語った「生活を楽しむ」というモットーがある。戦後、日本楽器製造(現ヤマハ)のピアノ事業を率いた川上は、ピアノそのものを売る以上に、音楽教室を広げて「ピアノを楽しむ人」を増やすことに力を注いだ。
この精神を受け継ぐように、ヤマハ発動機は1990年に「感動創造企業」というコンセプトを掲げる。単に製品を提供するのではなく、人が夢中になり、成長し、世界との関わりを深めていく「体験」そのものを企業目的に据えると宣言したのだ。
そのため同社では、技術開発だけでなく、「感動」や、それを生み出す「人間」そのものの探究にも力を入れている。現在、米カリフォルニア工科大学と連携して進めている研究の中心テーマが「フロー」だ。
「スポーツや創作、仕事、ゲームなどに熱中しているとき、人はしばしば時間感覚を失い、極度の集中状態に入りますよね。心理学者のミハイ・チクセントミハイは、こうした没入状態を『フロー』と名付けました。私たちが目指す『鍛錬の娯楽化』もまさにこれと同じで、集中が高まった先で体験する『忘我の境地』。これが感動に至る一歩手前だとすれば、フローに導くことをサポートするのがヤマハ発動機の一つの役割だと考えています」
「心理学者のミハイ・チクセントミハイが名付けた『フロー』の状態に導くことをサポートするのがヤマハ発動機の一つの役割だと考えています」と語る木下氏
同社が特に注目するのは、「チームフロー」と呼ばれる複数人がシンクロしてフローに入る状態だ。例えば、サッカーで流れるようにパスがつながる瞬間。あるいは、ジャズの即興演奏がスイングする瞬間。個々の能力が溶け合い、集団が一つの生命体のように動きだすとき、周囲の人々まで巻き込む“濃密な没入空間”が立ち上がる。
「プロダクトの先に生まれる“感動”を企業活動の射程に入れることで、人間の幸せの創造までアシストできるかもしれない。すると、掃除や通勤のようなルーティン作業すら楽しくなる可能性があります。確かな達成感と喜びがある体験を世界に増やしたいのです」
「鍛錬の快楽」を、ユーザー体験へ実装する
こうした「鍛錬の快楽」を、実際のUXへ落とし込む試みも始まっている。オフロードバイクYZシリーズのオーナー向けレース参戦サポートプログラム〈BLU CRU〉はその一例だ。レース初心者でも挑戦しやすい環境を整えながら、練習会やライダー同士の交流を通じて、乗りこなす過程そのものを楽しむ場として設計されている。
「レースに勝つという結果より、レースに臨むための鍛錬を含めた過程を楽しむことを主眼に、全方位的にユーザーをサポートしています」と木下氏は語る。
競技スポーツの領域だけではない。同社は、今や「日常の足」として普及した電動アシスト自転車〈PAS〉の生みの親でもある。PASのユーザーコミュニティー〈Yamaha PAS Life〉でも、子育てや日々の移動にまつわる情報交換や励まし合いが自然に生まれているという。
「PASのコアユーザーは、幼稚園や保育所へ子どもを送迎する親御さんです。購入時は単なる移動手段だったとしても、雨の日も風の日も子どもを乗せて走り続けることで “相棒”になっていく。そして、子どもの成長の喜びや、子育てにまつわる奮闘を共有できるコミュニティーの存在が日々の支えになっているのです」
プロダクトでは、同社が「ジャパンモビリティショー2025」で発表した〈TRICERA proto(トライセラ プロト)〉が象徴的だ。フロント2輪+リヤ1輪の3輪EVで、3輪全てが手動操舵できる。自動化の時代に、あえて人間が操る感覚にこだわったモビリティだ。ヤマハ発動機には創業以来、人と機械が一体となる悦びを追求する「人機官能」という開発思想がある。市販を前提としないコンセプトモデルだが、まさに「鍛錬の娯楽化」を形にしたものといえる。
これらに共通するのは、「製品を売ること」ではなく、「人が世界と関わる体験そのもの」を設計しようとする姿勢だ。木下氏は、モノづくり企業のミッションを「モノを通じて、人と世界の関わりをアップデートすること」と表現する。
「ヤマハ発動機には、鍛錬を楽しむ文化は創業期から強く根付いています。ただし、これまでは作る側が楽しみ過ぎていて(笑)、ユーザーが楽しんでいるシーンに十分入り込めていなかった。本当に感動が創造されるのはユーザーの手元ですから、『体験の現場』にもっと深く関わらないといけないし、関わろうとする情熱を内部から呼び覚ます必要があると思っています」
ヤマハ発動機は55年の創業以来、オートバイ、船外機、ロボティクス……と手掛ける領域が広がり続け、今では世界約180の国と地域で事業を展開するコングロマリットになっている。成長を支えたのは、ロジカルに計算された「選択と集中」ではなく、現場の「これがやりたい」という強烈な主観(パッション)を尊重し、チャレンジングな「発散と分散」を許容するボトムアップ型の企業文化だった。
この歴史を、木下氏は「戦略なき戦略」と呼ぶ。
「規格外の人物がロジックを超えた発想で新しい領域を切り開く。これがヤマハ発動機の成長の源泉だったことは間違いありません。ただ、成熟市場では単に発散するだけでは生き残れない。どこへ向かうかを “意思”で定める必要があります。AI時代には、ロジックと数字だけでは、みんな似たような答えに収束していく。一人一人が意思を持ち、クリエイティブに未来を構想していくしかないと思っています」
一生、エネルギーを燃やし続けられる未来
「鍛錬の娯楽化」は、長寿化社会でこそ輝くコンセプトともいえる。たとえ若い頃のような体力がなくなっても、「できるようになっていく過程」に喜びを見いだせれば、人は何歳になってもエネルギーを燃やし続けることができるからだ。
「AIは人間の敵か味方か──という議論をよく見掛けますが、個人的には、AIを新しい種としてただ受け入れればいいと思っています。AIは死なないし性別もない。膨大な情報を扱って無限に積み重ねていける。すると、AIも含めた生態系の中で、人間はより人間らしくエネルギーを燃やせるようになる。ヤマハ発動機としては、それを全力でサポートしたいと思っています」
木下氏は「人間がより人間らしくエネルギーを燃やせるようになることを全力でサポートしたい」と強調する
AIによって労働やビジネスの在り方そのものが変われば、人間の自由時間は増えていく。だとすれば、私たちが今考えるべきは、「AIに仕事を奪われる」という短期的な不安への対処法ではなく、増えた時間で何に熱中し、何に夢中になって生きるかという、より大きなテーマだ。
木下氏もこう警鐘を鳴らす。
「資本主義社会の中で、欲望を燃やすことは消費に直結しがちでした。でも、消費だけでは限界が来る。消費とは別の形で、人が夢中になれるものをどう創造できるか。人間が幸せな方向へ進むためには、欲望の燃やし方そのものを変革するプロダクトや場がもっと必要なのです」
消費を加速させるのではなく、試行錯誤し、エネルギーを燃やす時間そのものを増やしていくこと。AI時代における「体験価値の再設計」は、人間が再び熱中を取り戻すところから始まるのではないだろうか。
