二つのキャリア、それぞれの出発点
木塚里子氏がTOTOの研究所に入社したのは2003年のことだ。就職活動を振り返ると、「仕事をするイメージが、学生のときはあまりありませんでした」と笑いながら言う。理系の研究室で水処理を学んでいた木塚氏が、幾つかの候補の中でTOTOを選んだのは、「生活に直接根付いている会社がいいな」という漠然とした感覚からだった。
その8年前の1995年、大学院で応用化学を学んだ中村良次氏もTOTOに入社する。最初の配属はお客さまサービス部門。そこから中村氏は、半導体製造装置の部品を扱うセラミック事業部へと移り、16年半にわたってグローバルなBtoBビジネスの現場を歩んだ。米国・シリコンバレーに5年間駐在し、世界的な半導体関連メーカーと渡り合った経験は、後に中村氏の仕事の基盤となる。
2人はしばらくの間、互いの存在を知らぬまま、別々の場所でキャリアを積んでいた。木塚氏は研究所の中で、浄水器から分析技術、そしてバイオセンサーへと仕事の幅を広げ、「測る」という行為の専門家へと静かに育っていった。中村氏はグローバルなビジネスの荒野で交渉力を磨き、異文化を渡り歩く中で「世界の変化の速さ」を肌で学んでいた。
2人のキャリアが交わる日が来るとは、本人たちも含めて、当時誰も思っていなかっただろう。
落下する便を捉える——誰もやらなかった挑戦
入社から約10年がたった頃、木塚氏はあるプロジェクトに加わる。「トイレで生体を測る」という構想だ。実はTOTOには、木塚氏の入社以前から同じようなテーマへの挑戦の歴史があったが、「商品化しても日常的なご活用へと深化させるハードルが高かったりして、試行錯誤を繰り返していました」(木塚氏)という経緯がある。
プロジェクトに加わった木塚氏が最初にアプローチしたのは、便ではない別の対象をセンサーで測るという方法。しかし測定の仕組みが複雑で、商品として消費者に価値を伝えにくいという課題があった。そこで着目したのが便だった。硬さや状態を見た目でも捉えやすく、利用者にも結果を理解してもらいやすい。再び、試行錯誤の日々が始まった。
TOTO総合研究所 主席研究員
木塚里子 氏
転機が訪れたのは、あるスタートアップとの出会いだった。その出会いをきっかけに、ラインセンサーを使って落下中の便をスキャンする「便スキャン」を開発。トイレの便座に搭載できるほど小型化し、落下中の便を自動計測しようと考えた。
しかし道は平たんではなかった。最大の難関は「落下速度」だった。
「便スキャンは、コピー機やスキャナーと同じラインセンサーの原理を使っています。細長いセンサーで対象を線状に読み取り、その情報を連続してつなぎ合わせる仕組みです。一番難しかったのは、便の『落下速度』の把握でした。硬さや水っぽさは落ちた後の状態でも分かりますが、今回は落ちる過程を記録する。どれくらいの速度で落ちてくるのかが分からないと、センサーをどう動かし、どのサンプリング速度でデータを取ればいいのか設定できないのです」(木塚氏)
前例のないデータは、自分たちで取るしかない。実験室に模擬便を落とす装置(治具)を作り、繰り返し検証した。その「分からない」を、根気強く「分かる」へと変えていく作業が、何年もかけて続けられた。
「やっぱり理系の血が騒ぐというか、測るのが好きなんです」と木塚氏は明るく言う。測ることへの純粋な好奇心が、この誰も踏み込まなかった領域を切り開かせた。
未経験のデジタルイノベーションへ飛び込む
一方、2017年、中村氏は突然、思いも寄らぬ仕事を任された。後にデジタルイノベーション推進本部につながるイノベーション関連のプロジェクトだった。
「もうびっくりしました。当時はどっぷりセラミック事業の仕事をしていましたから。社長からイノベーションをやってくれと言われて、何のことなのかすぐには理解できませんでした」(中村氏)
こうして5人ほどの小さなプロジェクトとして、TOTOのイノベーション活動がスタートした。
中村氏が最初に動いたのは、世界中のスタートアップとの接点をつくることだった。「デジタル時代になって変化のスピードがすごく速い。その中でTOTOが新しい価値を生み出すために、必ずしも自力だけじゃなく、ユニークなアイデアを持つ他社と組むことで、より魅力的な価値をより速く出せる可能性があると考えました」(中村氏)。
セラミック事業で鍛えたグローバルな交渉力と、シリコンバレーというスタートアップエコシステムの最先端の地に身を置いた経験が、ここで遺憾なく発揮された。
TOTOデジタルイノベーション推進本部 本部長
中村良次 氏
2024年11月には、スタートアップのエコシステムが非常に成熟している英国のロンドンで、サステナビリティをテーマにスタートアップ8社を招いたピッチイベントを開催。「普段はこちらからスタートアップ企業を探してお会いしに行くのですが、そのときは当社に興味を持ったスタートアップの方から集まっていただけました」(中村氏)。世界はTOTOの動きに注目していたのだ。
そのときイベントに参加してくれた企業の何社かとは今も議論を継続しており、「将来、TOTOの新たな価値につながっていくでしょう」(中村氏)。
オープンイノベーションの取り組みを通じて、中村氏はTOTOが「健康」領域に取り組む意義を再認識する。「世界中の人から、TOTOが『健康』へ取り組むのは自然だよねと言われました」。この構想はやがて形になっていく。
「デイリーウェルネス」構想で一つに交差した2人のキャリア
木塚氏が便スキャンの研究開発に没頭していた2010年代、世の中では「健康」に対する関心が高まってきていた。そして2020年ごろ、TOTO社内で「デイリーウェルネス」という構想が形を持ち始める。
「健康価値を目指す企業が多い中で、『TOTOが健康に対してどんな役割を果たせるのか』を突き詰めていきました。行き着いたのが、普段通りトイレやお風呂を使うだけで健康習慣が身に付く、健康に貢献できるという『デイリーウェルネス』の発想です。これはとてもTOTOらしいと考えました」(中村氏)
初代社長・大倉和親から2代目の百木三郎へ受け継がれた「どうしても親切が第一」という言葉にあるように、同社はこれまでも、使用者に特別な負担を強いることなく、いつも通り使うだけで自然と清潔や快適さを実現する商品を作り続けてきた。日常に寄り添い、知らず知らずのうちに使い手を支える姿勢こそが、TOTOのものづくりの真骨頂なのだろう。
2021年、米国のCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)でウェルネストイレのコンセプトを世界に発表。そこから、構想が本格的に動き出す。
この頃、木塚氏の総合研究所でも変化が起きていた。中村氏がいろいろなスタートアップと練っていた構想と、木塚氏の便センシングの研究が合流したのだ。二つの流れが、一つに交わった瞬間だった。
こうした動きと、さまざまな部門のメンバーの努力によって2025年8月に発売されたのが、ウェルネストイレ「ネオレストLS-W/AS-W」だ。搭載された「便スキャン」は、ウォシュレットのノズル出口の隣に内蔵されたラインセンサーが、落下中の便にLED光を照射し、反射光を自動計測する仕組みだ。カメラを使わないためプライバシーに配慮しており、便座に座ってリモコンの「個人設定ボタン」を押すだけで計測が完了する。
計測するのは、便の形(硬さ)を7段階、色を3段階、量を3段階。これらのデータはBluetooth経由でスマートフォンの無料アプリ「TOTOウェルネス」に送られ、カレンダーやグラフで毎日の状態を可視化する。「朝食に卵をプラスしましょう」「少し身体を動かしましょう」といったパーソナルなアドバイスも届く。
特別な器具を身に着ける必要がなく、ただいつも通りトイレを使うだけでいい——それがデイリーウェルネスの本質だ。
ウェルネストイレのラインセンサーや連携アプリには、木塚氏が着眼したスタートアップとの協業成果が取り入れられている。中村氏のオープンイノベーション戦略と、木塚氏の研究・外部連携が見事に結実した製品といえる。
TOTOを貫く「国民の生活文化を向上させたい」という信念
TOTOには、創立から100年以上変わらず掲げ続けてきた信念がある。
「国民の生活文化を向上させたい」
中村氏が進めるデジタルイノベーションも、木塚氏が続ける研究も、全てはその信念を実現するためにある。
「デジタルイノベーションの活動は何かと問われたら、デジタル時代における当社の企業理念の実現のための活動に他ならないと思っています。DX(デジタルトランスフォーメーション)はあくまでツールです」と中村氏は力を込める。
「TOTOにはものをきちんと作ることへの真面目さがあります。お客さまがきちんと使える商品、役に立つ商品を作る——そのベースは揺るぎません」(木塚氏)
そして2024年、この信念を実現するためのマテリアリティ(重要課題)に新たに「健康」が加えられ、「きれいと快適・健康」となった。もはや「健康」はTOTOにとって単なる事業の一領域ではない。会社の根幹を成すテーマとなったのである。
それを具現化していくのが「デイリーウェルネス」だ。TOTOは今、デイリーウェルネスに取り組むことによって、大きく変貌を遂げようとしている。
今、TOTOとはどんな会社か、と問えば、多くの人はこう答えるだろう。温水洗浄便座「ウォシュレット」を開発した会社、きれいなトイレを作る会社、快適なバスルームを提供する会社。それは正しい。しかし中村氏は、その先を見ている。
「TOTOは、トイレやお風呂、キッチン、洗面台という、生活の中でも最もプライベートで、最も体に近い場所のハードをお客さまに使っていただいている会社です。ハードの時代は、トイレを使っている間、お風呂を使っている間だけが、お客さまへの価値提供の場でした。でもウェルネストイレのようにアプリやソフトウエアとつながることで、使っている瞬間だけでなく、1日を通して価値をお届けすることができます」
トイレ、お風呂などの水まわりというユニークなアセット(資産)を世界中に持つTOTOだからこそ提供できる体験価値だ。それぞれのハードでデータを蓄積し、スマートフォンのアプリがそれを1日の健康体験として編み上げていく。TOTOはもはや「水まわりの住宅設備メーカー」にとどまらない。まだ誰も踏み出したことのない、「生活文化のDX」を世界規模で実現していく先駆者なのである。
世界が期待するTOTOのイノベーション
TOTOの「デイリーウェルネス」革命はまだ始まったばかりだ。「ウェルネストイレはあくまで第一歩に過ぎません」(中村氏)。
木塚氏は照明と睡眠の関係についても研究を続けている。夜中にトイレへ起きたとき、明るい天井照明をつけると目が覚めてしまう。便器の周りと足元だけを照らす照明なら、眠りを妨げないのではないか。その仮説を一般の生活者の協力を得て検証し、良い結果が得られたため学会で発表した。
また、ウェルネストイレについても次世代モデルの開発に余念がない。「TOTOでしか測れないもの、トイレでしか測れないものに着目して研究しています」(木塚氏)。
木塚氏は「TOTOでしか測れないもの」に着目して次世代モデルの研究を続ける
中村氏は、外部のスタートアップとのオープンイノベーションをさらに加速させている。「まだまだ表に出ているものは少ないのですが、今後の展開に向けた仕込みは数多くできています」。
全く別の道を歩んでいた中村氏と木塚氏のキャリアが交差し、新たな価値を生み出していく。社内に異なる領域で培った経験や専門性を備えた多様な人材を持ち、多様なキャリアが共存しているTOTOだからこそ、このようなイノベーションが起きたのである。
「TOTOには、誰かが面白そうなことを始めたら、それを止めたり阻害したりしない、おおらかさや遊び心がある。そういった環境だからこそ、イノベーションが生まれるのだと思います」と木塚氏は感じている。
「実際、世界のTOTOに対するイノベーション期待はとても大きい」と中村氏は言う。
「世界に出てみると、『日本のトイレはきれいだ。それを作ってきたTOTOなら、これからも何か新しいことをやってくれる』という期待を感じています。そうした期待に応え、世の中にまだない体験をつくっていきたい。TOTOにはまだ大きなポテンシャルと成長余地があり、挑戦できる領域もたくさんあります」
100年を超えるものづくりの技術の蓄積とデジタルが融合し、全くキャリアの違う人材が出会う場所。それがTOTOである。これからも、そこから新たなイノベーションが生み出されていくことだろう。
TOTO株式会社
https://jp.toto.com/
TOTO採用特設サイト(新卒・中途)
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