橘玲の世界投資見聞録 2015年8月27日

ボスニア・ヘルツェゴビナ、「スレブレニツァ虐殺」から
20年の今、教訓にすべきこととは?
[橘玲の世界投資見聞録]

スレブレニツァの虐殺の引き金とは?

 3つの“民族”が混住するボスニアでは、ある民族の住む地域に別の民族の「飛び地」がいくつもあった。こうした飛び地が、真っ先に民族浄化の標的になったことはいうまでもない。スレブレニツァも、セルビア人地域にあるボスニア人の主要な飛び地だった。

 しかしこれだけでは、スレブレニツァの凄惨な虐殺の説明にはならない。事件の起きた1995年はボスニア内戦の末期で、EUだけでなく米国や国連も紛争の収拾に乗り出しており、スレブレニツァには国連(オランダ軍)の平和維持軍まで派遣されていた。このような「衆人監視」のなかで、国際社会から激しい非難を浴びることが確実なジェノサイドなどふつうは起こりえない。

 だったら何が暴力の引き金を引いたのか? このような疑問からスレブレニツァ虐殺の経緯を調べたのが、東欧史、比較ジェノサイド研究の佐原徹哉氏の『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民俗化』(有志舎)だ。

 佐原氏は、ジェノサイドに至る前段階として、「ボスニア人の残虐行為」を指摘する。

 スレブレニツァ地区には、旧ユーゴの警察特殊部隊出身のナセル・オリッチに率いられた強力なボスニア人武装勢力があり、1992年4月の内戦勃発後4カ月でスレブレニツァの95%と隣接するブラトゥナツの50%を支配した。オリッチ配下の政府軍が尖兵となってセルビア人の村に突入し防衛体制を崩すと、市民兵が加わって住民の追放と略奪を展開し、建物に放火して支配地域を広げていったのだ。

サラエボの街                  (Photo:©Alt Invest Com)



 佐原氏はその様子を次のように描写する。

 「(ボスニア人の)作戦はセルビア人を追放することが目的であり、見せしめとして残虐な殺害方法が用いられた。犠牲者は喉を掻き切られ、干草用の三叉熊手で襲われたり、焼き殺されたりした。例えば、(1992年)6月21日に行なわれたラトコヴィッチ村襲撃事件では、少なくとも17人の農民が殺されたが、建物内部に閉じ込められて焼き殺されたり、殺害後に頭部を切断されたりなどの陰惨な方法で殺された。徹底的な破壊と略奪も一つの特徴であった。住民を追い出した後、ボスニア人は食料や家畜、武器・弾薬を奪い、その後、建物を放火あるいは爆破して廃墟に変えた。」

 セルビア側の主張では、この攻撃により1993年3月までに少なくとも1200人が殺され、2800~3200人が負傷したとされ、内戦前に9390人いたセルビア人がわずか860人になるほど徹底した追放が行なわれた。こうした残虐行為がセルビア人の復讐心を煽ったのはいうまでもない。――誤解のないようにいっておくと、ここで「ボスニア人が残虐だ」ということをいいたいのではない。他の地域では、ボスニア人はセルビア人やクロアチア人の武装勢力によって同様の方法で“浄化”されていたのだから。

ボスニア人が武装解除に応じず、国連が抱いた不信

 形勢が変わったのは1993年になってからで、セルビア人のスルプスカ共和国軍が反撃に転じると、圧倒的な兵力の差に抗しきれず、ボスニア人はスレブレニツァを中心に半径20キロ圏内に押し込められてしまう。内戦前に3500人しかいなかったスレブレニツァ市内には8万人近くの難民が押し寄せ、人道的危機を重く見た国連はスレブレニツァを「安全地域」に指定し、国連部隊がボスニア人の武装解除と引き換えに安全を保障することになった。

 だが安保理決議がなされたにもかかわらず、現実にはボスニア人の武装解除は一向に進まなかった。セルビアの武装勢力に包囲されている状況のなかで、100人規模の国連部隊が駐屯しているからといって、彼らを信じて生命を預けるわけにはいかなかったのだ。その結果、国連が武装解除の任務完了を発表したにもかかわらず、ボスニア人側は使い物にならない一部の武器を自主的に引き渡しただけで、戦闘可能な武器はいっさい手放さなかった。

 スレブレニツァの「安全地帯」にはボスニア政府軍第28師団が駐屯し、地域防衛隊を合わせると4000人近い兵力が軽火器や持ち運び可能なミサイル類を多数保有していた。ボスニア人武装勢力は「安全地帯」から出撃し、セルビア人農村を襲撃し、あいかわらず略奪を繰り返していた。

 こうした状況で、国連の停戦監視部隊は深刻な矛盾に悩まされるようになる。

 彼らは当初、国際世論と同じく、ボスニア人を内戦の犠牲者と考えて彼らを保護するのが自分たちの任務だと思っていた。だが現実には、停戦協定に違反するのはほとんどがボスニア人武装勢力なのだ。

 1995年1月には、「安全地帯」南西部で起きた戦闘の調査中にオランダ軍部隊約100人がボスニア政府軍に拉致され、数日間勾留される事件まで起きた。こうした体験に遭遇するなかで、最初はボスニア住民に同情的だった国連軍部隊は、彼らに抜きがたい不信を抱くようになっていった。

 状況が混沌となりはじめると、当初、「ボスニア解体を目論むセルビア民族主義者が内戦を引き起こした」というステレオタイプで報じていた欧米のメディアは判断不能に陥り、欧米の指導者たちはそれ以上に狼狽した。「民族紛争」の構図が崩れると、内戦が収拾不能になると恐れたのだ。

高台からサラエボを望む。セルビア人部隊はここから街を砲撃した      (Photo:©Alt Invest Com)

 

 アメリカ政府はそれまでの傍観を改め、1993年末から積極的にボスニア内戦に介入する。クリントンの和平案はボスニアを二分割し、半分をセルビア人に、残り半分をボスニア・クロアチア人に与えるというもので、クロアチア人にボスニア人と同盟を組ませる代償として、自国内にあるセルビア人地域をクロアチアが“民族浄化”するのを黙認した。

 アメリカの介入によって、セルビア人武装勢力は徐々に劣勢になっていった。94年にNATOによる空爆と経済制裁が始まると、頼みの綱だったセルビア(新ユーゴ共和国)のミロシュヴィチ政権はボスニアのスルプスカ共和国と断交した。同年末にボスニア人・クロアチア人の共同作戦でセルビア人の拠点が陥落し、追い込まれたセルビア人側は95年1月から4カ月間の停戦を受け入れざるを得なかった。

 これがジェノサイドに至る背景で、セルビア人側は軍事的劣勢に立たされたからこそ、自らの地域内にあるボスニア人の飛び地を攻略しなければならないと考えたのだ。

セルビア人側が国連の監視所を攻撃したことがきっかけとなった

 1995年5月、薪を集めて帰る途中のセルビア人農民のトラックがボスニア人の武装ゲリラに襲撃され、5人が殺害される事件が発生した。6月にはマイクロバスが待ち伏せされ、民間人5人が殺されたのに続いて、セルビア人の村が襲撃され、応戦したセルビア人部隊に70名以上の犠牲者が出た。

 こうした事態に業を煮やしたセルビア人側は7月2日、ボスニア人ゲリラ封じ込めのために「安全地帯」南部にある国連の5つの監視所を攻撃した。これに対して現地のオランダ軍部隊は、セルビア人を威嚇する空爆を要請したが、6月の空爆で375人の国連要員がセルビア人に拉致され「人間の盾」に使われたことから国連軍司令部は爆撃機の出動を決断できなかった。オランダ軍はやむなく撤収し、一部は投降して捕虜になった。――この対応はのちに厳しい批判にさらされることになるが、佐原氏は、この時点で仮に空爆を行なったとしてもほとんど効果はなかっただろうとしている。

 国連軍やボスニア政府軍の抵抗がないことを知ったスルプスカ共和国の政治指導者ラドヴァン・カラジッチと軍事指導者ラトコ・ムラディッチは作戦を変更し、7月10日、一気にスレブレニツァを制圧した。

 セルビア人部隊の侵攻が始まって、スレブレニツァのボスニア人住民は大混乱に陥った。彼らが出した結論は、報復の標的になることが確実な成人男性を先に脱出させることだった。こうして11日深夜、前後を武装した兵士に固められた成人男子1万5000人の隊列が出発した。

 残された住民は近隣のポトチャリにあるオランダ軍基地を目指し、11日夕方までに2万5000人が避難した。避難民の大部分は女性と子どもと老人で、スルプスカ共和国軍の指導者ムラディッチはオランダ軍に対し、彼らの安全な移送を約束すると同時に、ボスニア軍の武装解除を迫った。この時点では、成人男子が脱出したことに気づいていなかったのだ。

 スルプスカ共和国軍は11日早朝から多数のバスを手配し、避難民の移送を開始したが、バスに乗ることを許されたのは女性と子ども、老人だけで、基地内に残っていた1000人を超える成人男子は別の収容所に移送された。このとき、国連軍の管理下にもかかわらず約50人が殺されたことから、オランダ軍部隊は国際社会から強い非難を浴びることになる(収容所に送られた成人男子の生存はほとんど確認されていない)。

 その後、セルビア人はスレブレニツァを脱出した隊列を血眼で捜し、12日早朝、先頭集団を発見して大規模な攻撃を行なった。1万5000人の隊列は寸断され、ひとびとはグループに分かれて山中に逃げ延びた。山狩りが始まると、捕虜になるのを恐れて銃や手榴弾で自決したり、錯乱して地雷原に飛び込み生命を落とすボスニア人も少なくなかった。

内戦で死亡したボスニア人の墓地       (Photo:©Alt Invest Com)

 

 捕虜となったボスニア人は近郊の収容所に送られたあと、13日午後から大量処刑が始まった。佐原氏はセルビア人兵士の証言から、その様子を次のように描いている。

 「最初のバスに乗っていた(ボスニア人)捕虜の処刑が終わるころには、スピードアップのため機関銃を使おうという話になった。機関銃による処刑は凄惨を極めた。強力な弾の威力で捕虜たちの体がバラバラになったが、急所を外れるので捕虜たちはのたうち回り、止めをさしてくれと訴えたのである。(中略)こうした極限状況では兵士ですら平常心を保つことは不可能で、処刑が始まると同時にアルコールが配られ、酩酊状態で任務をこなしていった」


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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