セルビア人のムラディッチはなぜジェノサイドを命じたのか?
ボスニア内戦では数々の残虐行為が行なわれたが、ほとんどは民兵によるもので、正規軍が指揮官による命令で虐殺を行なったのはスレブレニツァだけだ。
セルビア人の軍事指導者ムラディッチはなぜジェノサイドを命じたのだろうか?
従来の解釈は、ボスニア人武装ゲリラの残虐行為に対する報復、というものだ。スレブレニツァの成人男子が決死の脱出を試みたように、ボスニア人側も、セルビア人の捕虜になれば殺されることがわかっていた。それほどまでに両者の憎悪は高まっていたのだ。
だが佐原氏は、この復讐説には無理があるという。ムラディッチは旧ユーゴスラビアの士官学校をトップの成績で卒業した生粋の軍人で、合理的・戦略的な思考を徹底的に叩き込まれていた。自分たちの行動が国際社会からどう見られるかもわかっており、スレブレニツァと同じボスニア人の飛び地であるジェパでは、1000~2000人のボスニア人兵士がいたものの、戦闘体制の解除だけで市民の帰還を許可し、自発的投降を拒否して森の中に身を隠した兵士の掃討作戦も行なわなかった。セルビア人側の目的が報復であれば、こうした鷹揚な行動が説明できない。
スレブレニツァとジェパとの違いは、ボスニア人兵士の数ではないかと佐原氏は推測している。
ボスニア政府軍を中核とする1万5000人の“部隊”はセルビア人にとってじゅうぶんな脅威だった。ムラディッチとしては、スレブレニツァを脱出した部隊が他のボスニア人グループと合流して反撃に転じることをなんとしても阻止しなければならなかった。
だがそうなると、ボスニア人の隊列を発見・壊滅させて大量の兵士を捕獲した時点でこの不安は解消したことになる。それなら捕虜を収容所に移送したうえで、一部の戦争犯罪人だけを処罰し、あとは交渉のカードに残しておけばいい(事実、これまではそうしてきた)。
だがここで、新たな問題が起きる。捕獲した兵士の数があまりにも多すぎるのだ。
スルプスカ共和国内にはこれだけの捕虜を収容する場所はなく、食料や水の手配も難しい。だからといって捕虜を劣悪な環境に放置すれば、国際社会から非難の的になるのは目に見えている。そんな捕虜を交渉カードにしても欧米諸国が譲歩する可能性はなく、かえって軍事的・経済的な圧力を強めるだろう。
だったら、ボスニア人兵士が戦闘で死亡したことにすればいいのではないか……。
このときムラディッチにとって、ジェノサイドこそが唯一残された「合理的戦略」だった。
7000人の捕虜を皆殺しにする命令は狂気にちがいない。だがその狂気は、理性の破綻ではなく、合理性の追求によってもたらされたのだ。
ジェノサイドの考察を、佐原氏は次のように締めくくっている。
「スレブレニツァ事件は(一方の勢力を)極端な国際的孤立に追い込んだ場合、「国際社会」は対象に対する抑止力を失ってしまうという厄介な教訓を残したことになる。」
日本もこれから「積極的平和主義」で自衛隊を海外に派遣するのなら、こうした事例を徹底的に分析・研究するべきだろう。生死のかかった極限状況では常識は通用せず、善意は問題を解決しないばかりか、よりグロテスクな状況を生み出すだけなのだから。
サラエボではいまだに銃弾の跡がいたるところに残っている (Photo:©Alt Invest Com)
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、歴史問題、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ最新刊『橘玲の中国私論』が絶賛発売中。●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)




