学力やIQではない「非認知能力」が、将来の就業や所得に影響する
中井:私たちアイデスは、子どもたちが運動の楽しさを知り、遊びの中から多くを学び、生涯を通して心身ともに健康に生きる「糧」を得るためのお手伝いができればと思っています。子ども向け運動遊具の開発を通じて「学び続ける人」を育てたい。そんな思いで商品に向き合う中で出会ったのが、「非認知能力」というキーワードでした。改めて、非認知能力とはどういうものなのか、教えていただけますか。
中室:経済学では、学力テストや IQ テストで測ることができるものを「認知能力」、性格的な特徴や人格を「非認知能力」と呼び、分析の対象にしています。
日本では、認知能力が将来の学歴や就業、所得との関連が強いと考えられているので、“偏差値”で計測される学力が重視される傾向があります。一方経済学は、認知能力が、学校を卒業した後の人生の成功のほんの一部しか説明できないことを明らかにしてきました。例えば、個人の学力テストの成績の変動は、個人の賃金の変動の17%しか説明することができないと主張する研究があります。つまり、経済学者の探求は、将来の成果を説明できる、認知能力以外の「何か」を突き止めようとしたところから始まり、それを一言で言い表そうとして「非認知能力」という言葉が生まれたのではないかと考えられます。
ただし、非認知能力にはかなり広範なスキルや特徴がひとくくりになって含まれています。例えば、誠実性や勤勉性、物事をやり抜く力、自制心などの多様な特徴やスキルが含まれます。その計測の方法もさまざまです。その中で、経済学の研究の関心は、賃金や職業など、将来の成果を予測できる能力やスキルは何かを明らかにしたいというところにあります。
中井:そもそも、「非認知能力」に注目が集まったきっかけは何でしょうか。
中室:1つは、1962年から開始された、シカゴ大学の労働経済学者ジェームズ・J・ヘックマン教授による調査「ペリー幼稚園プログラム」(アメリカ・ミシガン州)ではないでしょうか。質の高い幼児教育を受けた子どもを、その後40~50年にわたって追跡し、就学前教育への投資対効果が高いことを明らかにした研究です。この研究において、質の高い幼児教育を受けた子どもたちの将来の賃金や生活の状況が恵まれているのは、幼児期に獲得した非認知能力にあったということが明らかになったからです。
また、最近になればなるほど、非認知能力の重要性が増していると指摘する研究があります。ハーバード大学の労働経済学者デビッド・デミング教授は、O*NETと呼ばれるアメリカの労働者を対象とした調査のデータを用いて、1990年代以前と2000年代を比較しました。この研究では、2000年代のほうが高い対人関係能力を必要とする仕事が12%ポイント増加したのに対し、高い認知能力を必要とするが、低い対人関係能力でよいという仕事は3%ポイント低下したことを示しています。
中井:「非認知能力」における研究の最新状況はどうなっているでしょうか。日本ではまだまだデータが足りないのではと思うのですが、世界と日本の現在地を教えてください。
中室:教育の効果を定量的に明らかにするためには、同一個人を長期にわたって追跡したデータが不可欠です。ただ、日本のデータは、教育段階やその所管部署によってバラバラに管理されており、つながっていません。例えば、今、私たちの研究室が進めている研究の1つに、「埼玉県学力・学習状況調査」を用いた分析があります。これは埼玉県下の公立小・中学校の児童・生徒を小学校4年生から中学校3年生まで追跡したデータで、これを見るとさまざまなことがわかり、小学校4年生の学習環境が、中学3年生の学力にどのような影響を与えたかということを明らかにすることができます。しかし、日本で最も大規模な子どもの追跡調査であるこのデータをもってしても、生徒らが中学校を卒業した後どうなったのかはわかりません。また、彼らが小学校に入学する前の情報もありません。幼稚園・保育所と、高校はそれぞれ所管が違いますし、公立だけでなく私立の学校も多く、そう簡単にデータの連携ができないのです。
「教育の効果はすぐ出ない」といいます。しかし、幼稚園・保育所から子どもが大人になるまでのデータがつながっていなければ、幼少期に受けた教育や活動が、大人になった後にどのような影響をもたらしたかを明らかにすることはできません。一方、諸外国では、まさにゆりかごから墓場まで、同一個人のデータがきちんとつながっているところが多く、技術的にこうしたことができないというわけではないのです。
私は現在、デジタル庁でシニア・エキスパート(デジタル・エデュケーション担当)を務めています。2022年1月に、デジタル庁や他省庁と連名で「教育データ利活用ロードマップ」を発表しました。この中で、教育段階や所管部署によってバラバラに管理されているデータを必要に応じて連携する仕組みについても議論しています。
子ども中心の活動時間への投資こそ、最大のリターンをもたらす
中井:日本においては「教育=学力」というイメージが根強くありますが、特に幼少期においては「遊び」そのものが教育の一翼を担い、非認知能力の引き上げにつながっているように感じます。子どもの成長を助けるための非認知能力の概念がもっと広がり、就学前の遊びの価値が高まっていくといいですね。
中室: ここで注意していただきたいことがあります。それは、非認知能力が重要だからといって、認知能力が重要ではないとは言えないということです。
先に挙げたヘックマン教授の研究では、認知能力と非認知能力を相互に独立のものと仮定していますが、両方が互いに影響しあいながら、将来の学歴や賃金に影響すると考えています。ある時点で獲得した認知能力や非認知能力が、その後の教育投資の生産性を高め、認知能力や非認知能力をさらに伸ばすことの助けになるということが生じるわけです。例えば、小さいころに勤勉さを身に着けた子どものほうが、のちのち学力が高くなりやすい、というようなことです。
ヘックマン教授らは、これを「技能が技能を生む」(Skills Beget Skills)と表現しました。ヘックマン教授らは、1957年から1964年に生まれた子どもを長期にわたって追跡した調査を用いて、就学前(0歳から5歳ごろまで)と就学後(6歳ごろから13歳ごろまで)の2期間に分けて、認知能力と非認知能力がどのように影響しあうのかを明らかにしようとしました[*Cunha, Heckman & Schennach, 2010]。その結果、「技能が技能を生む」傾向は、就学前よりも就学後の方が強くなっていくことを明らかにしています。そして、就学前に身に着けた非認知能力は、就学後の認知能力を伸ばすのに役立ちますが、その逆は観察されないことも示しています。
学校教育や親による教育投資は、就学前においても、就学後においても、子どもたちの能力形成の助けになりますが、就学前の方がより効果的です。この理由は、ひとえに「技能が技能を生む」傾向があるからです。早期の教育投資によって認知能力や非認知能力を身に着けておけば、それが将来の教育投資の効果をさらに高めてくれるというわけです。
ですから、幼少期における教育投資は非常に重要なのですが、最近経済学で注目されているのは、「お金」の投資だけではなく「時間」の投資が重要だということです。家計簿をつけるかのごとく、毎日の時間の使い方について記録をつけた「生活時間調査」のデータを用いた研究の多くは、親の時間投資の効果は幼少期に最も大きく、子どもの学齢とともに低下していくことが示されています。時間の長さだけでなく、その「質」も重要です。時間の質の高さは、「子どもを中心とした活動か」ということや「親子の間で適度な会話や交流があったか」ということで計測されます。そして、子どもと質の高い時間を過ごすことが子どもの認知能力や非認知能力を高めることにつながるというわけです。絵本の読み聞かせなどに加え、アイデスさんが手掛ける“のりもの”も子ども中心の活動を促します。
中井:ありがとうございます。親子のコミュニケーションを促すツールとしての開発に注力してきたので、そう言っていただきうれしいです。
のりものなので、失敗してうまくできないこともある。私は息子と自転車練習するとき、ブレーキをぎゅっと握る行為ができるたびに「イエーイ!」とハイタッチをしていました。すると、子どもはもう一回やろうとする。どんどんうまくなっていくんです。
中室:非認知能力を鍛えられるのか、もしそうならどう鍛えればよいのかというのは今、世界で研究が進められているところです。
代表的なのは、イギリスのエセックス大学のスール・アラン教授らの研究グループらが、トルコのインスタブールの公立小学校で実施している研究です。小学生向けに、忍耐力や自制心、やり抜く力(GRIT)などの非認知能力を育てるプログラムを開発し、実際にそれに効果があるかどうかの検証を行っています。
日本でも、文部科学省が推進している「研究開発学校制度」はあるものの、ごく限られた一部の生徒を対象にした体系化されないプログラムが多く、アラン教授らが行っているような効果検証も行われず、他の学校に横展開できるような内容になっていません。海外の事例から学ぶことは多いように思われます。
音楽、絵を描く、運動をする――自己決定の連続が子どもの心を育てる
中井:生涯にわたって“生きる力”を支える非認知能力を育むために、子どもたちを取り巻く環境にどんな課題があるのか。そして、私たち大人はどんな教育と学びを提供すればいいのでしょうか。
中室:私たちの研究グループでは、複数の自治体の幼稚園や認可保育所で、幼児教育の「質」を計測するという調査を実施しています。観察調査で、1年に80カ所近くの幼稚園や保育所を訪れます。調査では就学後の学力や非認知能力との関連があることが証明されている「保育環境評価スケール」を用いて幼児教育の「質」の計測をしていますが、このスケールにおいて幼児教育の質を測る1つの側面に「活動」があります。「活動」には、積み木やごっこあそび、あやとりなどの微細運動、自然に触れることや、遊びや生活の中で数に親しむ活動までさまざまなものがあります。
調査の結果を見てみると、自治体によらず一貫して低いのが、この「活動」のスコアです。「活動」のスコアが低くなる背景には、子どもが自ら遊びを選択できるようになっていなかったり、選んだ遊びを「遊び込む」時間がなかったり、さらには遊びや活動が広がる遊具・玩具の質・量がともに足りていないという現状があります。中には、積み木や絵本が全くないという保育所もあったりします。
中井:保育園に積み木がないとは、ショッキングな話です。
私たちは製品開発をする際に、インテリアとしても成立するようなデザインであることと、省スペースであることを大切にしています。インテリアに合えば、しまわずにリビングに置いてもらえる。すると子どもの遊ぶ機会が増えます。そして、マンションやアパート内の小さな部屋でも遊べる商品を作ることで、子育て環境を選ばずに遊んでもらいたいと思っています。
中室:最近ではマンションの1部屋を借りているような小規模保育所も増えてきていますので、そういったところでも使っていただけるとよいですね。
また、子どもを持つ保護者の中には、国語や数学など受験に必要な「主要5教科」の勉強こそが重要で、音楽や美術はオマケと考えている人もいるかもしれません。音楽や美術のことを「副教科」などと呼ぶ習慣が残っていることからしても、そういった科目の地位の低さをうかがい知ることができます。しかし、音楽や美術は、子どもたちの認知能力と非認知能力の両方を高めることを示した論文が多数発表されており、その経験はとても重要です。
私は美術や音楽教育を専門にしているわけではありませんが、私の共同研究者である美術や音楽教育を専門にしている研究者は常に、絵を描くことや音を奏でることは「意思決定の連続」だというのです。音楽や美術が認知能力に与える研究については脳科学分野の研究が先行していることからも、おそらくこれらを経験することが認知能力に影響を与える経路なのではないかと考えています。
最近の研究では、テネシー州で行われた幼児教育プログラムの効果を検証し、この幼児教育プログラムを実施していたテネシー州の保育所に通っていた子どものほうが、保育所に通っていなかった子どもよりも、小学校入学後の学力が低くなったことを明らかにしています。この理由については、さまざまな議論が行われている最中ではありますが、1つは幼児期に、就学準備のための「お勉強」をさせることは決して良い効果を生まないということだと思います。多くの保護者が小学校に入学後に有利になるよう、文字を読めたり、簡単な計算ができることが重要だと考えておられるかもしれませんが、そうした早期教育の効果はごくわずかの初期の間しか持続せず、すぐにそれをしなかった子どもに追いつかれてしまうというわけです。
日本の幼児教育は、日々の生活や遊びを中心とした子どもの主体的、協同的な活動を重視しています。幼少期には、子どもを夢中にさせて「遊び込む」機会を与えることがとても大事なのではないでしょうか。
中井:私は小さい頃から音楽と絵を続けてきたので、何かいい影響があるのかも、とうれしくなってしまいました。
運動が非認知能力を高めるというエビデンスにはどのようなものがありますか。
中室: スポーツの経験は賃金に良い影響をもたらすだけではなく、学力や学歴を高めることを示した研究も多数あります。ドイツのデータを用いて、3~10歳の時に放課後にクラブでスポーツをした経験があると、小学校の成績が偏差値で1.9高くなることを明らかにした研究があります。この研究では、週1~2回のスポーツをすることで、1週間に30分程度、TVやスマホを見る時間を減らす効果があることもわかっています。つまり「勉強する時間」と「スポーツをする時間」の間で代替が生じるのではなく、勉強以外の、TVやスマホのような「受動的な活動の時間」と、スポーツのように「能動的な活動の時間」との間で代替が生じるのです。
中井:とても興味深いです。
当社の商品は極力シンプルなデザインにしていますが、そこには、子どもが自分の発想でいろんな遊び方をしていいんだ、という思いがあるからなんです。運動を特化させたり、遊び方の正解を示したりせずに、成長に応じて、遊び方が多様になるような商品開発をしていきたいな、と。
幼少期における運動遊びがいいことは、定性的には分かっている方が多い。でも、当社で運動に対する興味関心をアンケートでとると、「関心はあるけれどエビデンスがないでしょう」と多くの方が口をそろえます。今回の対談を通して「幼少期の遊びへの投資は、投資対効果が高い」と広く伝えていきたい。そして、遊びに夢中になる子どもたちを増やしていきたいですね。
中室牧子(なかむろ・まきこ)
慶應義塾大学総合政策学部教授
1998年慶應義塾大学卒業後、2005年にコロンビア大学School of International and Public Affairsで修士課程を修了。日本銀行や世界銀行での実務経験を経て、2010年にコロンビア大学Graduate School of Arts and Scienceで博士課程を修了。2013年から慶應義塾大学総合政策学部准教授、2019年から同学部教授。
中井範光(なかい・のりみつ)
アイデス株式会社 代表取締役社長
幼児用乗り物トップメーカー四代目。近江日野商人の末裔。「創業90年のベンチャー企業」と自社を位置づけ、「毎日の運動遊びを提供し、幼少期の成長と発達に貢献します」というミッションの下、幼少期の運動習慣が人生の糧になるということを自らの経験を通し確信。自身の事業を通して、様々なチャレンジをし、その啓蒙に努めている。