「暗い・狭い・古い」からの脱却。経営視点で下した「建て替え」の決断
1890(明治23)年に京都で合成染料の輸入販売業として創業し、現在では情報電子や合成樹脂、化学品、生活産業など多岐にわたる事業をグローバルに展開する稲畑産業。同社は2022年末からの約3年をかけ、東京・日本橋本町にある東京本社ビルの全面的な建て替えプロジェクトを敢行し、26年3月に新社屋での営業をスタートさせた。
プロジェクト発足の背景には、旧社屋が抱えていた深刻な課題があった。同社の管理部門全般を管掌する代表取締役専務執行役員の横田健一氏は、当時をこう振り返る。
「最大の懸念は耐震性でした。過去に耐震補強は行っていたものの、建物の土台そのものへの不安が拭えず、首都直下型地震への備えが急務でした。さらに、旧社屋は旧館と新館を増築でつなぎ合わせた構造だったため、動線が非常に入り組んでいました。柱が多くて視線が遮られ、フロア全体を見渡せない。社員からも『暗い・狭い・古い』の三重苦とやゆされるほどで、部署間の自然な交流が生まれにくい空間になっていたのです」
オフィスの老朽化問題に直面した際、多くの企業は「賃貸ビルへの移転」か「自社ビルの建て替え」か、で頭を悩ませる。稲畑産業も例外ではなかったが、経営的な視点から「建て替え」という決断を下した。
「50年という長期スパンで試算した場合、賃貸よりも自社ビル保有の方がキャッシュフローの面で圧倒的に有利でした。また、製造業と違って工場を持たない商社にとって、本社ビルは万が一の経営危機に直面した際の『最後の売却可能資産』という側面もあります。東京駅から徒歩圏内で、複数路線が使えるこの日本橋の立地は、長年培ってきた地域コミュニティーや取引先との信頼の証しでもありました」(横田氏)
稲畑産業代表取締役 専務執行役員
管理部門全般担当
横田健一 氏
こうして現在地での建て替えが決まったが、横田氏にはもう一つ、明確な基本方針があった。それは「建物自体はオーソドックスな構造にし、内装で勝負する」というものだ。
「奇抜で斬新な構造やデザインのビルにしてしまうと、数十年後に次の世代の経営陣が『もっと広い場所に移転したい』と考えた際、売却や賃貸がしにくくなります。将来の流動性リスクを回避するためにも、構造は標準的なものにとどめ、その制約の中でいかに社員の満足度を高めるか。内装やソフト面への徹底的な投資こそが、私たちのオフィス戦略の要でした」(横田氏)
仮社屋での3年3カ月は、働き方を変える「壮大な実験期間」
内装やソフト面で勝負する――。そのパートナーとして稲畑産業が白羽の矢を立てたのが、オフィス構築の専門家集団である富士ビジネスだ。同社とは東京オフィスにおいて37年以上もの取引実績があり、稲畑産業の社風や歴代のオフィスレイアウト図面まで知り尽くしている。
新社屋の建設に当たり、稲畑産業は建て替え期間中の3年3カ月の間、近隣の「COREDO室町2」に仮社屋を構えた。特筆すべきなのは、この期間を単なる一時避難ではなく、新しい働き方に向けた「トライアル期間」と位置付けたことだ。
プロジェクトのリーダーである総務広報室長の天野勝也氏と、総務広報室総務部長の山本勉之氏は、当時の苦労をこう明かす。
稲畑産業総務広報室長
天野勝也 氏
「旧社屋では長年、固定席・固定電話・大量の紙資料という昭和さながらのスタイルが当たり前でした。そこで、仮社屋に移るタイミングで、足元のキャビネットの9割ほどを廃止してペーパーレス化を断行し、固定電話を廃止してスマートフォンを支給。そして、初のフリーアドレス制を導入したのです」(天野氏)
当然ながら、社内にはハレーションが起きた。「電話がないと仕事にならない」「部下がどこにいるか分からない」と、特にベテラン管理職層からの懸念の声は強かったという。
「それでも、いきなり新社屋でゼロからスタートするのではなく、仮社屋という環境で強制的に『変化』に慣れてもらうプロセスが必要でした。トライアルを行ったことで、思わぬ収穫もありました。例えば、完全なフリーアドレスよりも、上長だけは固定席(ひな壇)に配置した方が、部下からの相談はしやすく組織が機能することが分かったのです」(山本氏)
稲畑産業総務広報室 総務部長
山本勉之 氏
仮社屋での失敗も重要なデータとなった。
「集中管理の空調は細かい温度設定ができず不満が出る」「電話ボックス型のテレホンブースは狭くて熱がこもる」といった社員のリアルな声を収集。さらに、旧社屋時代から悩まされていた「会議室の音漏れ問題」や「ウェブ会議用スペースの不足」といった課題も浮き彫りになった。
こうした現場の課題を一つ一つ拾い上げ、新社屋の要件定義へと昇華させていったのが富士ビジネスとの対話である。
「富士ビジネスさんとは、ワークプレース関連で少なくとも約100回、IT・インフラ関連で約99回(笑)という、信じられない回数の打ち合わせを重ねました」と、プロジェクトメンバーらは口をそろえる。
「彼らは内装デザインだけでなく、ITシステムや配線までをワンストップで担えるため、『デザインは良いがITの使い勝手が悪い』といったチグハグさが生じず、私たちの意図を寸分たがわず図面に反映してくれました」(天野氏)
199回の対話が生んだ「歴史と革新」が交差する新空間
数え切れないほどの対話と、トライアルでの検証を経て完成した新社屋。そのコンセプトは「全社員が使いやすく、挑戦・成長でき、人に誇れるオフィス」だ。
旧社屋のラウンジスペース
新社屋のカフェラウンジ
その象徴といえるのが、最上階である9階に設けられた「ワールドテラス」と「セッションルーム」である。高さ制限の限界まで天井高を引き上げ、アルミ反射素材の天井を採用することで、テラスからの自然光が室内全体に拡散する開放的な空間を実現した。
アルミ反射素材の天井を採用し、テラスからの自然光が室内全体に拡散する開放的な空間を実現した
「旧社屋では部署間のつながりが希薄でしたが、この最上階を『みんなが自然と集まりたくなる場所』にすることで、偶発的なコミュニケーションを生み出す仕掛けにしました。また、会議室の壁は全てガラス張りにし、見通しを良くして密室感を排除しています」(横田氏)
仮社屋での課題もしっかりと改善された。当初の予定だったビル全体を管理する空調システムを見直し、空調は細かいエリアごとに個別設定できるシステムを導入。複数人が作業できる執務スペースのほか、資料を広げて長時間の集中作業もこなせる、ゆったりとした「プライベートルーム」も設置した。
懸案だった会議室の音漏れ問題に対しては、壁を天井裏のコンクリートスラブまで完全にふさぐ「スラブ・トゥ・スラブ工法」を採用し、遮音性を劇的に向上。さらに、セキュリティー面では従来のICカードを廃止し、顔認証システムを導入することで、紛失リスクをなくすとともに運用負荷を大幅に軽減している。
旧社屋の会議室
新社屋の会議室の一例。見通しを良くして密室感を排除した
ユニークなのは、役員フロアの配置だ。一般的に企業の役員室は最上階に置かれることが多いが、稲畑産業ではあえて「中間階」に配置した。
「上にいると、どうしても社員との距離が遠くなります。建物の真ん中に役員フロアを置くことで、上下どちらのフロアからもアクセスしやすくなり、心理的なハードルを下げる狙いがありました」(横田氏)
最新の設備を取り入れる一方で、「創業以来のDNA」を継承する工夫も随所にちりばめられている。かつての社屋で使われていたガス灯や、稲穂のレリーフが刻まれた旧社屋の外壁を保存・展示し、自社の歴史を次世代へと伝える空間とした。革新一辺倒に走るのではなく、過去への敬意を形に残すことで、幅広い世代の社員が共感できるオフィスに仕上がっている。
「創業以来のDNA」を継承する意味もあり、かつての社屋で使われていたガス灯を展示
構造面でも徹底した。今後起こり得る首都直下型地震にも備え、今回のこの規模のビルでは異例となる「中間免振構造」を採用。電源設備を上層階に配置して浸水時でも電力供給が途絶えないよう設計し、備蓄倉庫も整備した。
東日本大震災で社員が会社に泊まらざるを得なかった経験を教訓に、「社員の安全・安心は担保したい」(横田氏)という意志が建物の基本性能に刻まれている。環境面ではCASBEE認証とZEB Readyを取得し、安全・安心と環境への配慮を両立させた。
オフィスは「コスト」ではなく、持続的成長のための「投資」
26年3月の移転後、新オフィスは早くも目に見える効果をもたらしている。
「移転前の内覧会の段階から、若手や女性社員を中心に『すごくおしゃれで働きやすそう』という歓声が上がりました。人事部門からも、新卒採用時の学生の反応が明らかに良くなったと報告を受けています。出社へのモチベーションが高まり、社内の空気は間違いなく明るくなりました」(山本氏)
約3年にわたる一大プロジェクトを成功に導いた要因はどこにあったのか。横田氏は、パートナー選びと対話の重要性を口にする。
「敷地面積や高さ制限といった厳しい制約がある中で、内装とソフト面の工夫だけでこれだけの満足度を引き出せたことは、私たちの社風を深く理解し、柔軟かつ粘り強く提案してくれた富士ビジネスさんとの対話を抜きには語れません」と説明。
旧社屋の執務スペース
新社屋の執務スペースの一例。フリーアドレスの導入に伴い、明るく開放的な空間を実現した
オフィス変革については、「単なる『引っ越し』ではありません。社員の働き方を変え、サービス品質を向上させ、ひいてはお客さまへの提供価値を高めるための戦略的な『投資』と考えるべきです」と、その重要性を強調する。
横田氏は最後に、社屋建て替えやオフィス移転を検討する企業や読者に対し、次のようなアドバイスを語った。
「変化に対する現場の抵抗は必ず起きますが、トライアル期間を設けて慣れてもらい、社員の目線に立って徹底的に対話を重ねることが、納得感の高いオフィス構築の近道だと確信しています」
旧社屋の入り口スペース
新社屋では、天井を高くしてゲートに顔認証システムを導入した
伝統を重んじる老舗商社が、自らの殻を破るために仕掛けたオフィス変革。そこには、自社ビルという不動産の価値を冷静に見極める冷徹な経営視点と、社員の声に耳を傾け続ける温かな対話のプロセスが共存していた。稲畑産業の新本社は「これからの時代のオフィス」が果たすべき「経営的役割」を、力強く体現しているといえよう。
