花王の創業者、長瀬富郎をご存じでしょうか。1863(文久3)年、現在の岐阜県中津川市で生まれた長瀬は、22歳で上京。コメ相場で無一文になるなどの曲折を経て、日本橋馬喰(ばくろ)町に洋小間物問屋を開きました。その後、石けんの製造・販売事業の開始を決意したとき、周囲は猛反対でした。石けん製造は容易なため無数の零細工場が乱立し、行き過ぎた価格競争による共倒れが続出していたからです。 

花王 創業者・長瀬富郎
1890年に完成させた桐箱入りの高級石けん

 ところが、長瀬の考えは違っていました。自分の店で米国製の高級石けんがよく売れる一方で、粗製・粗悪な国産品が安価でも低迷していることに着目。狙いを国産高級石けんに絞り、1890(明治23)年に新製品を完成させました。

 自信作の発売に際し、長瀬は必要以上の安売りはしないと決めていました。良質な製品作りには、コスト維持が不可欠だからです。そのために、さまざまな工夫を凝らしました。

 石けんにはブランド名を冠しました。「顔を洗う」という連想を狙って「花王」石けんです。1個ずつ蝋紙に包み、3個並べて桐箱に入れ高級感を演出。巧みな文章で「能書き」を作成し、薬学に基づいた分析証明書も同封して安全性をアピールしました。価格は3個入り1セットで35銭。1個当たり約12銭は、当時1ダース2~10銭の国産品に比べ相当高価です。問屋や販売業者への心配りも怠らず、販売店のマージンを保証し、他業界で行われていた年末割り戻し制を導入。中元や歳暮売り出しには景品を付けました。

 「宣伝は、良品を消費者に届けるために、良心的な生産者が行う消費者に対する奉仕である」の信念の下、長瀬は発売の当初、実に利益の44%を広告宣伝費につぎ込みました。新聞広告、開通早々の鉄道沿線の野山や田畑の立て看板、電柱広告、そして歌舞伎小屋の引き幕にも「花王」の文字が躍りました。こうして本邦初の高級化粧石けんの製造・販売に成功したのです。

 その要因は、今でいうマーケティングミックスの実践にあります。顧客の生活を豊かにする高品質の石けんという製品(Product)、品質を維持するため他と一線を画した高めの価格設定(Price)、卸売会社と小売店が適切な利益を確保できる流通戦略(Place)、そして顧客に商品価値をしっかりと伝える宣伝(Promotion)。この4P戦略が相乗効果を挙げたわけですが、根本にあるのは、顧客志向に他なりません。

 資本主義の概念が入ってきたばかりの明治期、短期的な利益のみにこだわる事業者が少なくない中で、長瀬富郎は成功すべくして成功したのです。

Maho Shibui
1971年生まれ。作家
(株)家計の総合相談センター顧問
94年立教大学経済学部経済学科卒業。
大手銀行、証券会社等を経て2000年に独立。
人材育成コンサルタントとして活躍。
12年、処女小説『ザ・ロスチャイルド』で、
第4回城山三郎経済小説大賞を受賞。 

 

 

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