1人でかばうより、それぞれができることを行動に移す

「道徳」の授業の枠でこの授業を行うと、多くの生徒さんは“正解”を当てようとします。受験勉強などを通して、日々“正解”を出す訓練を積んでいますから、事前に何の説明もなく意見を求めれば、「勇気を出してCさんをかばう」といった、およそ現実的ではない意見が多数出てきてしまいます。先生からも、争いを仲裁できる子どもを育てたいという教育的見地から、渦中に立って被害者をかばうヒーローの出現を期待する声が上がることもあります。

 もちろん、そういうことができれば文字通り“ヒーロー”であり、素晴らしいとは思います。しかし、多くの生徒さんたちにとって「表立ってかばう」ことは、かなりハードルの高い行為です。そのハードルの高さは、図1を見ても明らかでしょう。教室が「YES」の空気のまま被害者と加害者の間に立つということは、全ての「YES」を一身に受けることを意味するからです。経験上その重さがよく分かっている生徒さんなら、たとえ授業で“正解”を述べたとしても、実際に同じ場面に直面した場合、“正解”通りに行動することはまずないでしょう。

 ですから、授業では“理想”や“正解”ではなく、「実際にできること」を具体的に考えてもらうのです。そうすると、「友だち同士で『あれはヤバい』と問題意識を共有し合う」「Cさんにこっそりメールを送って励ます」「Cさんの悪口が盛り上がりそうになったら話題を変える」「先生にこっそり伝える」「嫌な空気になったらトイレに立つ」など、さまざまな意見が出てきます。

 弁護士の立場としては、「先生にこっそり伝えることは、問題ないどころかむしろ大切」と断言しています。加害者に「大きなNO」を突き付けられる立場の先生を呼んでくることは、問題解決の手段として非常に有効です。また、リスク管理の観点からも、教員が「いじめ」の情報を把握することは極めて重要です。

 多くの子どもたちは、「チクリは卑怯」というイメージを持っています。それも、こっそり先生に伝えたとなればなおさらでしょう。しかし、そもそも「いじめ」という手段を選択することの方がよほど“卑怯”なのであり、通報者を卑怯者呼ばわりするのはお門違いというものです。

 大人の世界でも、不正を通報した人が身元を明かされ、不利益な扱いを受けることはあります。そのために公益通報者保護制度などの保護手段があるのですから、学校でも通報した生徒はきちんと保護される必要があります。伝えられた側の先生も、通報者の秘密を守ることは最低限必要です。

 一方で、「指揮者のBくんさえしっかりしていればこうはならなかった。Bくんが何とかすべき!」という意見が出ることがあります。確かに、Bくんは他の生徒に比べれば責任ある立場ですから、こうした意見が出ること自体はおかしくありません。しかし、Bくんも一生徒であることは間違いなく、Bくんだけに「全てのYESの空気」を負わせるのは酷というものです。ですから、そうした意見が出た場合は、「Bくんだけに背負わせず、Bくんと一緒に問題解決方法を考えてあげてほしい」と伝えるようにしています。

 図1、図2から分かる通り、多くの場合、傍観者の人数が最も多く、傍観者が少しでも動くことができればその影響力はとても大きいのです。ですから、「みんなが“気付いて”、できる範囲で少しずつでも“動く”」ことがとても重要なのであり、「できること」のハードルはどんどん下げていった方が良いのです。そうすることで「見て見ぬふり」をしてしまう可能性を少しでも下げようという理解に到達するのが、この授業の大きな目的の一つです。

 そうはいっても、「実際に動く」ことは誰にとっても決して容易なことではありません。その結果、傍観者の中に「私は“中立”でいたい」と言いだす人が出てくることがあります。「いじめ」に対して“中立”とはどのような状態をいうのでしょうか。次回は、これについて考えてみたいと思います。

※第3回に続く