日本初の角膜コンタクトレンズメーカーとして、時代とともに革新的な商品やサービスを次々と送り出してきたメニコン。「1dayタイプ」の新製品を投入した同社は、「レンズの内側に触れない」という独自のこだわりで、コンタクトレンズの新常識を確立しようとしている。

──日本におけるコンタクトレンズのパイオニアです。

田中 創業者で先代社長の田中恭一が日本初の角膜コンタクトレンズの実用化に成功したのが1951年。おかげさまで今年、創業65周年を迎えました。

 当時、先代が勤めていた眼鏡店でなじみの米軍将校夫人に使っているコンタクトレンズを見せてほしいと頼んで、断られたのが開発のきっかけでした。

 「だったら自分で作ってやろう。米国人に作れるものが、日本人にできないはずがない」と奮起し、見本はおろか情報も全くない状態からハードコンタクトレンズの原型を作り上げたのです。これこそが自社開発によるナンバーワン、オンリーワンの製品作りの原点でした。

定額制会員システムで
安定収益基盤を実現

──以来、業界の先駆者として画期的なコンタクトレンズを世に送り出してきました。

田中 国内初の酸素透過性ハードコンタクトレンズである「メニコンO2」、世界で初めて連続装用を可能とした酸素透過性ハードコンタクトレンズ「メニコンEX」など、時代に先駆けた製品作りを行ってきました。
 技術と品質を徹底的に磨き上げたことが「メニコン」の確固たるブランド力、国内トップシェアの礎となったのです。

田中英成
メニコン  取締役代表執行役社長

たなか・ひでなり 1959年生まれ。87年愛知医科大学医学部卒業。眼科医として病院勤務、眼科医院開業を経て93年メニコン取締役、 2000年に代表取締役社長に就任。定額制会員システム「メルスプラン」を発案し、同社の事業基盤を安定させた。10年より現職。日本クラブユースサッカー東西対抗戦(U-15)「メニコンカップ」や「メニコンスーパーコンサート」への特別協賛などスポーツ文化支援活動にも積極的に取り組む。日本コンタクトレンズ協会会長、在名古屋シンガポール共和国名誉総領事。

──しかし90年代に米国から「使い捨てコンタクトレンズ」が流入して以来、国内シェアは2位に甘んじています。

田中 使い捨てコンタクトレンズへの対応が後手に回ってしまったことは否めません。

 コンタクトレンズは眼球に直接触れるものなので、品質は万全でなければならないというのが、今も変わらない当社の考え方です。その視点で見ると、当時の使い捨てコンタクトレンズは「当社の品質基準にはそぐわない」レベルでした。高い品質への自信とこだわりが、結果として使い捨てコンタクトレンズの開発や販売での出遅れに結び付いてしまったのです。

──巻き返しを図るため、2001年にスタートしたのが定額制会員システム「メルスプラン」だったそうですね。

田中 コンタクトレンズは、高度管理医療機器です。メーカーとして、エンドユーザーの「瞳の健康」を守る責任があります。

 また、使い捨てコンタクトレンズの普及とともに激しい価格競争が起こり、定価販売を原則としていた当社と全国の販売店が苦境に追い込まれました。コンタクトレンズ業界全体を守るためにも、対価に見合ったサービスの提供が必要だと感じていました。その二つの思いを実現するために考え出したのが「メルスプラン」だったのです。

 月々の会費を払えば、定期交換だけでなく、トラブル時にも新しいレンズに交換。ライフスタイルごとに使い捨てからハード、ソフトまで好みのレンズを選べ、視力や生活環境の変化に応じて種類を変更することもできます。こうした利便性が高く評価されて、会員数は120万人に達し、今も増え続けています。コンタクトレンズ事業の売り上げの約半分を占める、安定した収益基盤となっています。

メニコン 田中英成代表執行役社長 インタビュー動画はこちらから