葬儀はもともと
演劇的である

 これまで私は葬儀を題材にした芝居をいくつか書いています。葬儀は家族というコアなメンバーがいて、そこに他人が自由に出入りするというシチュエーションなので演劇になりやすいのです。

 そのなかでもいちばんヒットしたのが、フランスで創った『別れの唄』という作品。日本人と結婚したフランス人の女性が急に亡くなり、フランスから家族や友人が葬儀にやって来る。彼らは、日本独特の葬儀の習慣に戸惑いながらも、彼女の死を次第に受け入れてゆくという内容です。

 そのとき思ったのが、国や文化によって死の受け入れ方がものすごく違うということです。身近な人の死は誰にとっても悲しいのですが、日本では、喪主が気丈に振る舞うことが美徳とされます。ところが外国では、人前で泣いたり悲しんだりしないのは不自然だとされる。その違い一つとっても、劇作家として関心をかきたてられます。

 私にとっての理想の葬儀とは、その人がそれまで何をしてきたのかを振り返られるようなものです。7年前に父を亡くしましたが、そのときは母と相談して、「劇場葬」(こまばアゴラ劇場)にしました。葬式は亡くなったときに家族と親族だけでやり、2ヵ月後くらいに、父の業績をパネルにしてもらい、参列者が1日中劇場に出入りできる葬儀をしたのです。

 生きるということは演じることと言いましたが、演じるというのは“観る人”がいるということ。その人がかぶっていた仮面を、周りの人がどう思って見ていたのか、残された人たちが確認し合い、対話(ダイアローグ)することは意味があることだと思います。

死から社会になだらかに
降りてくるための仕組み

 葬儀とは元来、死の悲しみと社会を調和させていくための営みだと考えています。たとえば喪の期間というものがあります。旦那さんを亡くした妻が翌日からパチンコホールに行ったら周囲の人はどう思うか? では、いつからならよいのか? そんなことは誰にも決められないから、初七日とか四十九日という喪の期間を設定するわけです。

 死は誰にとっても悲しいけれど、それをいつまでも引きずっていると社会に戻れない。時代とともに葬儀のかたちは変わってゆくでしょうが、喪の機能は失われないと思います。
このように葬儀は、死から社会になだらかに降りてくるための仕組みであり、一方で芸術とは、どう生きるか、どのように死んでいくかといった“どのように死に向かい合っていくか”を考える仕事です。特に演劇では死を扱わないことが珍しいほど、身近なテーマになっています。人間、老いや死は1回しか経験できませんが、演劇のなかではシミュレーションができます。親の死をどう受け止めていけばよいのか? 自分はどのように死んでいくのか? 

 年齢的なこともありますが、今後はさらに死というものが、自分の演劇のなかでも大きなテーマになってゆくだろうと感じています。