ただ役職を外れ平社員として復帰した時に、何をしていいのかわからない状態に陥った。一人きりでは、主体的なることもできず、個性の発揮もままならないことを思い知らされた。

 その頃に、なぜかサラリーマンから他の世界に転身して活躍している人々に興味を引かれた。しかも彼らは、収入は減少しているのに「いい顔」をしていることが印象的だった。

 自分の今後の生き方のヒントを得るために、転身した人々にインタビューを繰り返した。それを通じて楠木さんは、定年(例えば60歳)の前に組織で働くことに意味を失うサラリーマンが少なくないことに気がついた。会社での評価も得て、経済的にも安定しているにもかかわらず、満たされないものを感じる状態のことだ。

 楠木さんは、それを「こころの定年」と名づけてみた。具体的な言葉では、「誰の役に立っているのか」「成長している実感が得られない」「このまま時間が流れていっていいのだろうか?」の3つに整理できるという。

 転身者の話と自分の生き方を何度も何度も重ね合わせながら、「自分の個性に合ったいろいろな働き方があっていいのだ」と心から納得できた時に一気に元気になったという。取材した相手は、延べ150人を超えるという。

<転身例>
・鉄鋼会社社員から/蕎麦屋開業
・NHK記者から/落語家
・信用金庫支店長から/「ユーモアコンサルタント」
・中堅ゼネコン社員から/社会保険労務士で独立開業
・製薬会社営業から/釣具店開業
・小学校の先生から/市会議員
・市役所職員から/大道芸

会社に所属しながら執筆活動を本格化

 そうした成果を活かし、朝日新聞beのキャリア欄で連載コラムを持ち、さらに2009年には『会社が嫌いになったら読む本』を上梓。以下、冒頭に挙げた著作を次々に刊行し、11年の『人事部は見ている。』が12万部というベストセラーになった。

「会社員で働くことも、起業・独立することも、つまるところ働き方の問題に過ぎません。大切なことは自分の持ち味に合った仕事をすることです。そのためには会社と家庭、さらに第三の場所を持てれば理想的かもしれません」

シャンパンを飲みながら楠木さんを囲んで、会社との関わり方について話に花が咲いた

 楠木さん自身は「書くこと」を第3の場所とすることができた。それは誰にでもできることではないかもしれないが、趣味でも、ボランティアや地域の活動などでも、さまざまな場所があり得るのではないだろうか。

 楠木さんは今なお会社に属し、執筆を続ける。また彼は、小さい頃に演芸場で観た落語家、漫才師といった芸人さんに対して今でも憧れを持っているという。「ゆくゆくは好きな芸人さんの伝記や評論を書いてみたいと思っているんです」

講演終了後、タグ・ホイヤー心斎橋店に場所を移し、シャンパンを飲みながら出席者と交流した。多くの人が楠木さんを囲んで、会社との関わり方について話の花を咲かせていた。