岩崎弥之助
(写真・近現代PL/アフロ)
仕事で高知に赴いたときのこと。安芸市に立ち寄り、岩崎弥太郎の生家を訪れました。
土蔵の鬼瓦には、スリーダイヤの原型といわれる岩崎家の家紋「三階菱」が見えました。台湾やインドでは、この地が金運や出世に恵まれるパワースポットとして有名なのだそうです。教えてくれたのは、インドからやって来た家族連れ。なにより、彼らが岩崎弥太郎のみならず、弟の弥之助も知っていたことに驚かされました。
弥之助は1851(嘉永4)年、兄の弥太郎と16歳違いで生まれました。弥太郎が50歳で亡くなった後、三菱財閥の2代目総帥として腕を振るいました。彼こそ現在に続く三菱グループの創業者というべき人物です。
弥太郎の晩年、三菱は存亡の危機にありました。明治政府内の権力闘争に敗れた大隈重信の失脚に乗じて、政敵たちは大隈の資金供給源と見なしていた三菱つぶしを企図したのです。渋沢栄一や益田孝など三井系企業や財界人に働きかけ、三菱の海運業独占に対抗する共同運輸を創設。運賃のダンピングなどによって激しい圧迫を加えました。
「徹底抗戦すべし」と陣頭指揮を執っていた弥太郎が没したのは、こうした激しいビジネス戦争の真っ最中だったのです。
「我の事業を墜(おと)す勿(なか)れ」という弥太郎の臨終の言葉に、「粉骨砕身して」と約束した弥之助でした。ところが8カ月後、弥之助は、共に疲弊した共同運輸と三菱の合併という苦渋の決断を下します。
「たとえ三菱の旗号は倒れ、…実に忍び難いものがあっても、国の大計のためにはやむなし」との判断でした。両社の合併により創設されたのが、日本郵船です。新会社の資本金1100万円のうち、共同運輸が600万円、三菱が500万円を拠出。理事4人のうち、三菱出身者は1人のみ。しかも、三菱の幹部の大半が日本郵船に移りました。
屈辱的な結果も、身軽になった今こそ、新事業を始める千載一遇の好機だと弥之助は捉え、1886(明治19)年3月29日に新会社「三菱」を設立。弥太郎が海運業の一分野で寡占体制を目指したのとは異なり、鉱業、倉庫業、保険業、銀行、農場経営など多角的に事業を展開しました。
海から陸に上がった三菱を象徴するのが、東京・丸の内の開発です。当時、最先端のビジネス街だったロンドン・シティの街並みを日本に創ろうと挑戦した弥之助の志は、三菱一号館をはじめ今も丸の内界隈に色濃く感じられます。
1971年生まれ。作家
(株)家計の総合相談センター顧問
94年立教大学経済学部経済学科卒業。
大手銀行、証券会社等を経て2000年に独立。
人材育成コンサルタントとして活躍。
12年、処女小説『ザ・ロスチャイルド』で、
第4回城山三郎経済小説大賞を受賞。