田中久重夫婦
写真:毎日新聞社/時事通信フォト

 〝からくり儀右衛門〞の異名を取り、後に〝東洋のエジソン〞と称された田中久重は、1799(寛政11)年、筑後国久留米(現福岡県久留米市)で生まれました。べっ甲細工師の父の跡を継ぐはずの人生を変えたのは、1冊の和本『機からくり巧図ず彙い』です。そこに記されたぜんまい仕掛けのからくり時計や人形の仕掛けの虜になった久重少年は、朝から晩まで小刀を手に図案と向き合い、2年かけて茶くみ人形を作り上げました。   

久重が江戸時代に作ったからくり人形「茶酌娘(ちゃしゃくむすめ)」
写真:朝日新聞社/amanaimages

 20代の久重は、からくり人形師として全国を行脚し、大いに評判を取りました。ところが、天保の改革で風紀の取り締まりが厳しくなり興行を断念。逆境にくじけることなく、久重は大坂で実用品の製作・販売を始めました。携帯できる「懐中燭台(しょくだい)」や空気圧の原理を利用して油を灯心に送り込み長時間使える「無尽灯」などの発明品は広く愛用され、夜間医療の発展にも役立ちました。

 53(嘉永6)年、ペリー率いる黒船が来航。長崎警備を担当する佐賀藩主・鍋島直正は、欧米列強と日本の軍事力の圧倒的な差に危機感を募らせ、久重を招いて国防技術の開発を命じました。藩の科学技術研究機関である精煉(せいれん)方に着任した久重は、出自を問わず集められた優秀な技術者たちと寝る間も惜しんで励みました。日本初の洋式反射炉の能力強化、150ポンドカノン砲や電信機、船舶用蒸気機関、当時最強のアームストロング砲製造などに成功。西欧諸国が100年かけた科学技術進歩の道のりを、わずか十数年で歩むという奇跡です。

 これらの技術は薩摩藩にも提供され、薩長同盟成立後には長州藩にもたらされました。戊辰戦争では近代技術を導入した佐賀や薩長の軍事力が要となって、短期間の官軍勝利を導きます。明治維新といえば、志士たちの活躍ばかりが注目されます。しかし、希代の発明の才を持った久重の存在も見逃せません。「国家に有用なる機械をせいぞうして奉公の誠を尽くし、世の公益を広めん」と、発明への飽くなき情熱を燃やした田中久重がいなければ、内戦は長引き、他のアジア諸国同様、欧米列強の植民地になっていたかもしれないのです。

 75(明治8)年、久重は東京・銀座に工場兼店舗を構えました。80歳を間近にしての挑戦です。店に掲げた「万般の機械考案の依頼に応ず」の看板にたがわず、電気計器や木綿糸取り機、電話機、報時機など、求めに応じて多様な製品を送り出し、日本の産業界に多くの種をまきました。久重の没後、残された工場は後に芝浦製作所と改称しました。今日の東芝の前身です。

Maho Shibui
1971年生まれ。作家
(株)家計の総合相談センター顧問
94年立教大学経済学部経済学科卒業。
大手銀行、証券会社等を経て2000年に独立。
人材育成コンサルタントとして活躍。
12年、処女小説『ザ・ロスチャイルド』で、
第4回城山三郎経済小説大賞を受賞。 

 

▲ ページTOPへ戻る

 

関連記事