マグネシウム合金は亀裂や破断が生じやすく、鋳造や射出成型が加工の主流だった。ツツミ産業は加熱、放熱、加圧力、加圧速度など膨大なデータを長年にわたって愚直に収集、分析。現存する金属の中で最も軽く、強度、剛性が高く、未来のマテリアルと期待されるも伸び悩んでいたウイークポイントを一掃した。名作『下町ロケット』を地で行く汗と涙の結晶の純度を高めるべく三越伊勢丹がたどり着いたのは京漆の名門、佐藤喜代松商店だった。

真っ赤な営業車で
京都の街を走り回った

農業の道に進む人生設計を描いていた貴彦氏だったが、現在は漆に夢中だ。2003年に家業に入った

 「農業の勉強がしたくて京都府立大学に入りました。ほどなく、私は青年海外協力隊のメンバーとしてエルサルバドルへ渡ります。刺激的な毎日。本格的に腰を据えるためにいったん帰国しました。先輩に『博士号を取っておいた方が何かと便利だよ』と勧められたのです。そこで父に声を掛けられた。『週一回でいいからアルバイトせんか』って。開発中の漆の試験をしてほしいというのです。家業でありながら、このとき初めて漆と向き合いました。9000年の歴史を持つ漆は伊達(だて)じゃなかった。しかも、父は研究者なら誰もが胸躍るような漆をほとんど手中に収めていた。週1回のアルバイトがフルタイムになるまで、大して時間はかかりませんでした」

 4代目の佐藤貴彦氏は、続けて「私の考えに反対などしたことのない父だったが、これには仕組まれた感がある」と笑った。

 佐藤喜代松商店は大正10(1921)年に創業した京都で4軒を残すのみとなった漆の老舗。全盛期は東京と伊勢に支店があり、20人以上の社員を抱えていた。現在は6人、支店はとうの昔に畳んでいる。ご多分に漏れず、漆業界も近代化の波にのみ込まれようとしていたのだ。

 老舗の主戦場は友禅の染型など和装業界だった。染型とは型紙を用いて染める製法で、漆は型紙の固着に欠かせない材料である。実は漆の主たる需要は接着用途にあり、器や箸のような工芸品の塗料に使われるのはごく一部。支店を伊勢に設けていたのは全国的な型紙の産地だったからだ。だが、これが石油溶剤の猛攻撃を受けた。

(写真左)漆塗りに使う刷毛は人間の髪から作られる。熟年の技が求められる刷毛職人も減少の一途だという。
(写真右)佐藤喜代松商店はつや、粘り、乾きのバリエーションで50もの漆をそろえる。同業他社を凌駕(りょうが)する数だ。色の多さも特長で優に100色を超える。西陣に根差した漆屋だからこそのラインナップと、4代目の貴彦氏は胸を張った。写真は床下に水を張った地下の貯蔵庫。一年を通じて16度に保たれている

 父の豊氏は1985年、旧知の研究者や技術者と共にかつてない漆の開発に着手した。本業のかたわらに始めたその研究が報われて、MR漆と名付けられて世に出たのはそれから4年後のことだった。

 頭に付けたMRは三本ロールミルの略称だ。絵の具などの精製にポピュラーだったその製法を応用する発想が突破口になった。木桶(おけ)の中で腕木の回転と加熱によりかくはんする、それまでのプリミティブな方法に比べて格段に硬化性と耐候性が増した。レシピも一から見直すことでさらなる性能向上が実現、漆特有のかぶれを解消するというおまけも付いた。

 漆には温度湿度を一定に保った環境で乾燥させる必要がある。工房に設置されたムロ(=室)がその役割を担ってきたが、MR漆はムロの存在を不要とした。それは屋外の巨大なプロダクトにも使えることを意味している。

 見逃せないもう一つがプライマー処理だ。他業界ではありふれた技術だが、漆職人には無縁だった。さまざまな塗料を試し、漆に最適な塗装設計を導き出し、金属への対応も可能になった。