最初の友だちは50歳代の漁師。市長に出会い、町おこしにも参加

――移住する上での不安や懸念として「地元との人間関係」を挙げる人も多いのですが、その点については。

 こっちに来てからはじめて通ったしぶ~いホルモン焼き屋があって(笑)、そこで50歳代の漁師さんと親しくなりました。最初の友だちは彼ですね。彼の町内会では年中イベントをやっていて、祭りの時、神輿を担ぎに来ないかと誘われたのをきっかけに、あんこう鍋や流しそうめん、餅つきなど、しょっちゅう家族ぐるみでイベントに参加するようになりました。おかげで地域にすんなりと溶け込むことができました。

 ただ、10年前の小田原だったら、もうちょっと敷居が高かったかもしれません。人口がだんだん減って高齢化も進み、神輿の担ぎ手もいないようになって、よそ者がウェルカムになってきたのでしょう。これは他の地域でも同じかもしれませんね。

――その後もいろいろな人たちとの出会いがあったそうですね。

 はい、偶然にも教え子のお父さんが小田原市の副市長でした。ごあいさつをということだったんで、さっそく会いに行ったんですが、市長の加藤憲一さんとも合わせていただいて。そこから縁がつながり、市の行政や町おこしにも関わるようになったんです。市長さんとはお酒もご一緒して。まちづくりをめぐって、初対面なのに意見がぶつかりあいました。ご本人は否定されますが、僕的には口論の一歩手前(笑)それでも僕との縁を大事にしてくださった。じつに懐の深い方です。

 市の取り組みを通して、地元の宮大工さんや材木組合のリーダーたちとも知り合いになりました。せっかくのご縁なんで、彼らに仕事机をお願いしたんです。で、使用した木はなんと樹齢300年の杉の一枚板。それも、小田原城の天守閣の将軍柱(天守の地階から最上階までを貫く大黒柱)は同じ杉の木の芯の部分を使っていて、その外側の部分だったそうです。彼らは、損得勘定を超えているんですよ。『この木は先生に会うのをずっと待ってたんだよ』なんて言われて。もう、この人たちのために一肌脱がなきゃ、地域おこし、町おこしを一緒にがんばらなきゃ、という気持ちになるじゃないですか。

 今日もそうですが、どうして小田原に来たの?と聞かれます。あれこれいいましたが、どこにいくかは、結局、偶然なんじゃないでしょうか。でも、小田原には、地方には人がいる。居場所がある。だからこそ、僕は小田原にのめり込んでいったし、家族とともにこの街で生きていきたい、そう思えたわけです。

――具体的にはどのような行政に関わっているんですか。

 最初は、市の総合計画づくりに参加しました。加藤市長は今期が3期目で、「持続可能な地域社会モデルの実現」をテーマに掲げています。今後、「分かち合いの社会」をめざして、さまざまなプロジェクトが開始されます。そのための会議にも僕を誘ってくださいました。

 いま市長と語り合っているプロジェクトの1つは、僕らが「藩校」(江戸時代に諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校のこと)と呼んでいる「みんなの学校」をつくることです。いまの子どもたちは、将来の選択肢が見えないまま、受験勉強に追い込まれていく。

 だから、様々な専門分野の大人たちが集まって、子どもに職業について教える場を持ちたいと。僕だったら民主主義を教えたいし、大工の棟梁さんだったらカンナがけを、漁師さんだったら漁法や生き物の命を頂くことへの感謝を教えてあげられる。ね、何か楽しそうでしょ(笑)たとえば古民家を改修したりして、世代や学歴、障がいの有無などによる壁のない学校をつくっていきたい。そんな夢を見ながらいろんな方と議論をしています。

 それともうひとつ。先日、小田原市では生活保護をめぐる問題がおきましたよね(編注:市職員が不適切な表現が記されたジャンバーを着用し業務を行なっていた)。とても悲しい事件でした。なぜこんなことがおきたのか、徹底的に解明していってほしいし、その力が小田原市にはあると思います。過ちは誰にだってある。その背景を徹底的に探り、事態を改善する力があるのかどうか。みなさんにもその姿勢にぜひご注目いただきたいです。