敗戦後、復興した日本の高度成長期を象徴するビッグイベントが、1964年の東京オリンピック(以下、五輪)と70年の大阪万博だった。五輪や万博が開催されると、それをきっかけとして、新路線や道路といった交通インフラなどさまざまなプロジェクトが動き出す。2020年の五輪、25年の万博を控えて、街がどのように変わってきたか見ていこう。

1940年「幻の万博と五輪」
前回東京大会のレガシーとは

 ♪金鵄(きんし)輝く日本の、という奉祝国民歌が流れた1940(昭和15)年は、神武天皇の即位から2600年という大日本帝国にとっては節目の年だった。零式艦上戦闘機もこの年にちなんでいる。

 関東大震災(1923年)から復興した帝都東京では、皇紀2600年のこの年、日本万国博覧会(万博)と第12回五輪競技大会が、札幌では第5回五輪冬季競技大会が開催される予定だった。

 ところが、その3年前に勃発した日中戦争の激化により、いずれも38年には開催中止となった。幻の万博と五輪である。このとき万博会場に予定されていたのは、東京・京橋区(現・中央区)の晴海と震災のがれき処理で生まれた深川区(現・江東区)の豊洲だった。

 家康の開府以来、江戸の町は埋め立てにより広がっていった。明暦の大火(1657年)のがれきから築地が生まれたように、いまの中央区の多くは埋め立てによる。

1964年五輪東京大会のレガシー(遺産)は、
いまも利用されている数々の交通網にある1964年五輪東京大会のレガシー(遺産)は、 いまも利用されている数々の交通網にある

 明治維新後、東京になってからも、隅田川の浚渫(しゅんせつ)などで出た土砂による埋め立てが続いた。多くは工場用地や港湾施設になったものの、戦後の高度成長期から、一部で集合住宅も造られるようになる。

 戦災からの復興と繁栄を国際的にもアピールする場として、アジア初の五輪と万博への期待が高まっていく。そして、四半世紀ぶりに五輪が現実のものとなったのが1964年のことである。このときは突貫工事の連続だった。とりわけ交通網の整備が一挙に進む。

 一般道では青山通りの拡幅やマラソンコースとなる甲州街道(国道20号)の整備が行われた。外客移動のため、羽田空港と都心を結ぶ東京モノレールが9月に開業、首都高速でも前年末の京橋・芝浦間の開通に続いて、日本橋本町と羽田空港を結ぶ1号線などが開通した。

 そして10月。10日から始まる大会に合わせて、1日に東海道新幹線が開業している。現在では、リニア中央新幹線の建設が2027年開業目標で進められている。

 メインスタジアムは神宮外苑に置かれ、代々木会場には2つの体育館が造られた。第2会場となった現在の駒沢オリンピック公園総合運動場は幻の五輪のメイン会場として予定されていた場所でもある。選手村は、大会に合わせて返還された進駐軍宿舎のワシントンハイツ跡に建設された。現在の代々木公園である。