MADE IN JAPANを支えた老練の職人と意気込みもセンスも備えた若者たち。土壇場でこのバトンタッチがなされたファッション産業は、予想に反して再生の道を進み、良品を作り続ける。いわばジャパンクオリティーを紡ぎ出す、ニッポンの製造現場の来し方行く末とは。
「かつて尾張一宮の駅前にはメガバンクと高級外車がずらりと並びました。尾州金利といって糸偏の会社はずいぶん優遇された、ガチャマン時代です。ガチャンと織れば、万ともうかるという意味ですわ。そうそう、中京圏で有名なモーニング、コーヒー1杯でおなかいっぱいになるあのサービスは奥さんたちに台所仕事をする余裕がなくなって広まったんです」
ガチャマン時代が
はるか遠くに過ぎ去って

「われわれ2代目、3代目はこの恩恵をいささかも味わっていません」と、日本繊維業の一大拠点、尾州で名門の呼び声も高い中伝毛織の副社長、中島君浩氏は笑う。
1950年代の尾州は文字通りの活気がみなぎっていた。けん引役は対米輸出だった。下降線をたどることとなった原因はシンガポールや韓国などのいわゆるNIESの台頭。駄目を押すようにオイルショックが起き、85年のプラザ合意で日本の繊維業は出口の見えない不況時代に突入した。
製造業は多かれ少なかれ似たような道をたどった。中国が世界の生産基地といわれるようになった頃には、そう遠くない将来に寂しい結末を迎えるであろうことは誰の目にも明らかだった。
手に職を付ける魅力に
若者が気付き始めた

風向きが変わったのは21世紀を迎える少し前。すっかり油が切れて、ちょう番が嫌な音を立てる製造現場の門を若者がたたいた。バブルがはじけて、従来のビジネスモデルの限界がささやかれるようになった頃だ。『三陽山長』の靴を作るセントラル靴の沢田里奈氏は言う。
「この時代に一足一足手で作られているなんて。職人への憧れがあった私は、迷うことなく靴の世界へ足を踏み入れました」
一線を走り続けてきた職人がそろそろ引退しようかという瀬戸際でもあった。それは今回取材したファクトリーの年齢構成を見れば一目瞭然だ。最も層が厚いのは20代と60歳前後で、その中間世代はすっぽり抜け落ちている。

こうして、日本のモノづくりはギリギリの継承を果たしたのだ。
「女房の実家がある会津まで行って、学生を勧誘したこともあるよ。だけど、金の卵は日立や東芝を選んだんだ。30年前は本当にこの業界は駄目だと思ったよ」
セントラル靴の専務、中澤敬明氏は現場の多くを若者が占めるようになった現在の陣容を異変だと言って、目をぱちくりさせた。
さらなる追い風も吹いた。アジアの人件費高、産地偽装、クールジャパン……多様な要素が絡みあって、日本製を見直す芽が出た。
時を前後して海外のサプライヤーも熱い視線を注ぐ。
「分母は小さいものの、右肩上がりで伸びている」と中伝毛織の中島氏が言うのは、誰もが知るラグジュアリーブランドとの取引である。古き良き職人仕事は世界でも減少の一途だったからだ。
『糸偏(いとへん)一本でやってきたからね、
服地は触っただけで判るんだわ』
中伝毛織尾州を代表するファミリーカンパニー
織物を生業としていた中島伝衛門の名をもらい、その息子らが1960年に会社組織に。現在は初代代表の息子である中島幸介氏が社長を、初代の弟の息子である君浩氏が副社長を務める。自他共に認める尾州のリーディングカンパニーであり、設備投資、人材の採用と育成を積極的に推し進める一方で、経営が行き詰まった取引先のグループ化も行っている


こうしたモノづくりを引き継ぐ立場にある若者は、古参の職人をして「素晴らしい」と言わしめる。
「今の若い人は基礎がしっかりしているし、ヤル気もあるからね。教えなくても、見て覚えるよ」
セントラル靴で名人と称される74歳の北条幸彦氏の言葉だ。
製造現場は元来、威勢が良かった時代でさえ消去法で選ばれる就職口だった。ところが現在の若者は、自らその道に進んでくる。
『若い連中は筋がいいから、
仕事は見て覚えてくれてるよ』
セントラル靴3大手製靴メーカーで唯一生き残った
1949年、浅草の北で創業。浅草といえば日本を代表する革靴の産地だが、業界が元気な頃は山の手にも多くの工房があり、浅草は格下とされていた。そんなエリアにあって、セントラル靴は日本の三大手製靴メーカーに数えられた一軒だ。そろそろ80歳に手が届こうかという名物専務、中澤敬明氏が今なお陣頭指揮を執り、老若男女30人弱の職人が働く
